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バイオマス戦略構築への提言(上)
バイオマス・ニッポンへ里山から提案
—早期実現に必要な視点と課題—

田端英雄

7月に発表された「バイオマス・ニッポン総合戦略骨子」は、本格的にバイオマスの利活用が政府の政策として取り上げられたという意味で画期的であるが、ここでは、この総合戦略に関連した問題点や考慮されなくてはならない視点について若干の議論を行いたい。とくに、この総合戦略は地球温暖化防止と持続的な発展可能な社会、あるいは循環型社会の実現を目指すものであると書かれているのでこの…に関連して論点を少し整理する必要があると考える。持続可能な社会とはどのような社会なのか、あるいは循環型の社会とはどのようなものなのか、その上で里山林のバイオマス利用についての提案をしてみたい。

かつて薪炭林として繰り返し伐採され、そして再生を繰り返してきた里山林は、資源の持続的利用の見本のような自然である。しかも、そこには自然の循環機能に適合した資源を循環させる社会、つまり循環型社会をかいま見せるような仕組みがあるからである。しかし現実には、その優れて再生可能なバイオマス資源である里山林が、近年利用されることなく放置されているが、里山林のバイオマス資源の利用は「バイオマス・ニッポン」の実現に不可欠ともいえる。

持続可能な社会の実現に向けて

資源をふんだんに消費し、環境を破壊し、分子ゴミを含むゴミを出し続け、次世代に膨大なマイナスの遺産を残す社会は、持続的な発展可能な社会に対立する社会である。ゴミを出し続ける社会に対して、自然の循環機能に適合し、資源とくに自然資源を節約し資源を循環させる社会を実現しなければ、未来はない。われわれの世代は資源を浪費し、環境を破壊して、発展を求めて走り続けてきた結果、次の世代に大きな負担を背負わせることになってしまったわけで、どうしても将来へ向けて世代間の公平性が保証できるような社会的な仕組みが必要とされている。持続可能な社会の実現には、環境問題と資源問題が立ちはだかる。

「バイオマス・ニッポン総合戦略骨子」のなかにある、持続的な発展可能な社会=「バイオマス・ニッポン」という図式は、あまりにも持続的な発展可能な社会、あるいは循環型社会を単純化した提案のように誤解を受けそうである。バイオマスを使えば持続的な発展可能な社会が実現するということではないだろう。

不確かな問題を多くはらんでいるものの、地球は温暖化するだろうと予測されている。したがって、地球温暖化防止に役立つことは些細なことであれ、できるところから手をつけるべきであるといった意味合いのバイオマスの利活用を進める提案であれば、「バイオマス・ニッポン総合戦略骨子」の発表を軽く読み飛ばすこともできようが、この「バイオマス・ニッポン総合戦略骨子」は6月に閣議決定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」と関連して提案された、いわば「持続的に発展可能な社会」「循環型社会」を実現するための日本政府の基本戦略ともいえるものであると考えるのが当然であると思う。であるとすれば、バイオマスの利活用を進めることによって「持続的な発展可能な社会」「循環型社会」を真に希求しようとする気迫あふれる充実した考察と実現可能性を追求したものでなければならないのではないか。私はこの「バイオマス・ニッポン総合戦略骨子」から、そういった熱いものをくみ取ることが残念ながらできなかった。  スウェーデンをはじめとする環境問題の先進国での取り組みなどもふまえて、日本はこのように持続的な発展可能な社会を実現するのだという総合戦略と、そのなかにあってバイオマスの利活用を進める総合戦略の提案であってほしかった。さらに、ヨーロッパとくにスウェーデンなどの環境政策の先進国での、ここ数十年の取り組みは、税制をはじめとするさまざまな政策支援があってはじめてバイオマスの利活用が可能になった貴重な試行錯誤の経験があった。

そして、近年OECD加盟国では、環境政策の中で環境税のような経済的手段が大きなウェイトを持つに至っている。実際に多くの加盟国で環境関連税が導入されている。しかも、炭素税などの課税によって二酸化炭素の排出が抑えられ、エネルギー需要に占める化石燃料の使用が減少し、それとリンクしてバイオマス利用が促進されたことがはっきりしている。バイオマス・ニッポンの実現のためには、「バイオマス・ニッポン」を推進するサイドからの社会経済的な政策支援についての大胆な提案を「バイオマス・ニッポン総合戦略」に盛り込むべきであると強く主張したい。

スウェーデンでは炭素税を導入してエネルギー需要の中での化石燃料使用を減らし、つまりバイオマス利用をすすめることによって、結果的に二酸化炭素の排出を削減することに成功した国の一つである。そのスウェーデンで今も真剣な二酸化炭素排出削減の目標達成に向けて熱い議論が行われていることと比べると、彼我の温度差を感じてしまうというのが私の率直な思いである。そこでは、炭素税の課税の範囲、家計に占めるエネルギー消費の占める割合に関する調査をふまえた課税の公平性や、二重配当のか可能性などについて、今も官民で熱い議論がなされている。

地球温暖化防止をいうならば、、大気中の温室効果ガスを現状レベルに維持するためには、二酸化炭素で六十%以上の排出削減をしなくてはならないという試算もあるので、経済の仕組みも環境保存を第一とするものに変えなくては対応できないだろう。環境税だけでなく、さまざまな環境政策、新しい経済手法を導入しなければならない。そして、バイオマス・ニッポンはどのような位置を占めるのかという議論を総合戦略に丁寧に書き込まなければ、「骨子」の中で述べている、国民各層のバイオマスの利活用に関する共通認識を期待できないのではないか。そのためにも、「バイオマス・ニッポン総合戦略」の策定にあたっては、上に述べた諸点を含めて、以下のような検討をしなくてはならないと思う。

  1. 世代間の公平性を確保する手法:環境税をはじめとする税制の検討。これは単に公平性の問題だけではなく、バイオマス利用をすすめるためのバイオマスの価格決定に大きな影響がある。
  2. 環境税の根拠:どうしても二酸化炭素などの「帰属価格」、環境税の基礎であるだけでなく、バイオマス利用を進める時の補助金、あるいは助成を考えるときの費用対効果を考える根拠にもなる。しかし、日本の現状をふまえた「帰属価格」が必要である。しかも、これは排出権取引の価格決定とも関連している。

    炭素税などの環境税の課税と税収との関係、環境税の課税と家庭の家計に対する影響などの問題の検討。スウェーデンではこういった問題を検討する委員会が作られ、そこでの結論がバイオマス利用にいかされている。バイオマス・ニッポンでも、バイオマスの利活用を進めるにはこういった資料や理論の整備が必要である。産業の競争力維持のための環境税の減免についての議論も必要であろう。

  3. 農林業におけるバイオマス:林業でのバイオマスについて、どのような形態のバイオマスがあるのか。林地残材、製材廃材、建築発生木材などについてだけでなく、里山林のバイオマスも含めたバイオマスの利活用の緻密な調査に基づいた提案が必要。とくに林業を活性化させることができなければ、「地域材及び木材バイオマスの利活用の推進」はできないので、これを生きた、気力あふれる提案にする必要がある。

    ナタネなどのエネルギー作物の栽培による農地の有効利用とバイオディーゼル生産とその利用。バイオ燃料に対する免税措置の提案。

国民的合意の形成

地球温暖化防止ひとつ取り上げても、われわれの世代だけでなく、いや次世代、次次世代でより大きく影響を受ける問題であり、もっと真剣な議論を巻き起こし、行動に移さなければならないところまできているのに、せっぱ詰まった雰囲気が日本における議論からは全くといって感じられないのがいらただしい。それはわれわれの日常の生活のありよう、われわれの日常生活の思想、社会や経済や財政のありよう、行政のありようをどのように新しい時代に即応するものに変えていくかといった問題と関わっていて、どれひとつとっても並大抵のことでは解決しない重い問題である。

ましてや、「持続的な発展可能な社会」や「循環型社会」は誰も経験したことのない新しい社会へ移行していこうとする人類的な、ある意味では崇高な試みについての偉大な提案なのだと私は思っている。人類の未来をかけたすごい提案なのだといっていいのだと思っている。それをいかに実現していくかに関して、「骨子」の表現を借りれば「国民的理解の醸成」はとても難しい問題である。それは、バイオマスの利活用が今どれほど必要であるかを語りかけることでは達成できない。そこには、国民の心を突き動かすような「思想」が必要である。ヨーロッパの国々が「京都議定書」の環境目標達成に強硬な意見を主張しているのは、ヨーロッパ各国における真剣な議論と行動によって支持されているからであるということを、思い起こす必要がある。やはり、ヨーロッパの国々における一般国民の議論や行動に目を向ける必要がある。少なくともわれわれよりもずっと真剣である。

「持続的な発展可能な社会」や「循環型社会」を実現するには、19世紀から20世紀に作られてきた今の社会の仕組みや経済の仕組みをから、新しい思想を実現する社会や経済の仕組みに変わらなくてはならないのだと思われる。今、それはどんな仕組みなのか、古い社会の何を変えなくてはならないのか、どんな新しさを持った社会や経済の仕組みなのかを、模索している。「持続的な発展可能な社会」や「循環型社会」の実現は、こういった言葉を使うだけでは実現しない。それは、ものすごい人類史的な壮大な試みなのだという語りかけがなされなければ、国民の合意形成は難しい。それはとてつもなく困難なことなのだ。

それは例えば、今私たちが何の疑問もなく使っている「廃棄物」といった言葉を必要としない社会、理想的にはそれは「廃棄物」がない社会なのだといえばいいのだろうか。そういった社会を目指す壮大な実験なのだといえばいいだろうか。さもなければ、「循環型社会」は実現しない。昨年の本誌の「自然エネルギーが拓く二十一世紀の農林水産業・農山漁村」の「里山から見る自然エネルギー」の中で私はそれは「資源を浪費し、分子のゴミを含むさまざまなゴミを出しつつけて環境を破壊し、次世代に負担しきれないような大きなマイナスの遺産を残さない」社会とか、「自然の循環機能に適合した、自然資源を節約し、資源をできるだけ循環させる」社会と書いたが、それでは本当の意味で循環型社会など実現できない。しかし、「循環型社会」へ向かって、何を今始めなくてはならないかを問いかけることなくして、国民の合意形成はやはり望めないのではないか.

植物の光合成が太陽エネルギーを捕捉しエネルギーをもたらす森林や草原は、信じられないような巧妙な仕組みを持った、人類の社会的共通資本である。この生物的自然がなければ、つまりこの驚くべき生態系のサービスがなければ人類の存続はありえないのに、空気や水は当たり前でそれに経済的な価値があるなどとは考えてこなかったように、生態系を当たり前とし、破壊してきた。しかし、本当に今のまま生態系を破壊すれば間違いなく人類は破滅するというところにきてようやくその重大な価値に気がつき始めた。植物の生育を支える土地と水は生態系の基本的基盤である。農地の荒廃、林地の荒廃は循環型の地球の構造を破壊し、今人類が希求する「循環型社会」を実現することができなくなってしまう。

自然のサービスは何によっても代替することができないだけでなく、その経済的価値を評価し決定することは不可能である。生物の多様性の維持も、生物社会によるサービスを確保し持続可能な社会を実現するために不可欠であるということを「バイオマス・ニッポン総合戦略」の中で明確にしておくことが必要である。私がこれから議論しようとする日本の里山の位置づけも、こういったコンテクストの中で行わなければ説得的でありえないのである。薪炭林として使われてきた里山林では、伐採することによって、利用することによってでしか、その生物多様性の維持ができないということはきわめて重要な自然認識である。そのために、里山林のバイオマス利用が意味を持ち、里山林という社会的共通資本の保全がそのことによってのみ可能になる。

バイオマスの利活用についての合意形成については、次回で論じたいが、なにも政策支援がなければ、バイオマスは化石燃料にくらべて高い値段設定になってしまうにもかかわらずバイオマスを使う意思決定を国民がするためには、どうしても上述のわれわれはどこへ行こうとしているのかに関する議論が必要である。しかし、「帰属価格」に基づいた次世代への負担に関する忌憚のない率直な語りかけが不可欠である。もちろん、環境税やエネルギー税についての考察が必要である。政府による環境税の取り組みが遅れるならば東京都などが提案している地方自治体におけるグリーン課税なども議論の対象になってくるだろう。  エコロジカルな視点、自然資本の経済の視点から、あるいは税制等の社会や経済や財政を含めた、新しい社会へ向けて、個人も企業も国家も新しい行動をとる時がきている。

(週刊農林 2002年11月5日号)