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里山を考える①
里山とはどんな自然か
そして
里山でいま何が起こっているか

田端英雄

里山という言葉があちこちで使われるようになり、里山に関心が払われるようになってきたことはうれしいことである。さまざまなところでさまざまに、里山保全の取り組みが行われている。「里山」が自然体験を通した環境教育の場として使われたり、炭焼き体験の場として使われたりしている。また、里山管理の一環として、市民参加による林床の刈り払いも行われている。

しかし、「里山とは何か」という聞いに対しては、さまざまな答えが返ってくる。「奥山に対して、人里近くの山が里山である」とか、「薪炭林のことで、人手が入った半自然の二次林である」とかいわれる。また、「里山とは都市近郊林である」といわれることもある。

「里山っていいですね。里山にいると心が安らぎます」「四季それぞれに異なった色に染まる里山はほんとにいいですね」とか、「子どもの頃の田舎の風景、あれが里山ですよね」などといわれたり、また「里山は保護しないといけない」「美しい里山を保護してください」という発言もよく耳にする。そこで、私がここで問題にする里山とはどんな自然なのかについて、明らかにしたうえで議論を進めたい。

私の里山研究

研究の価値がないとされた人為的自然

私たちが「里山」研究を始めた頃は、まだ住宅団地やゴルフ場、あるいはリサーチパークなどの開発が目自押しであった。ところが、ゴルフ場建設というと建設反対運動が起きるのに、住宅団地やリサーチパーク、テーマパークができるときには、反対運動が起きたという話を聞いたことがなかった。なぜなのか。

薪炭生産のために利用できなくなってお荷物になった森林を、所有者が手放して開発業者に売ってしまうのは理解できる。しかし、ほんとうに森林を含めて、この身近な自然は破壊されてもいいのだろうか。生物学的に見ても価値のない自然なのかどうかをまず明らかにしないといけないと考えた。だが、「身近なところにある森林や田んぼ、田んぼの畦は、人手が入っているから生物学の研究対象としては適切でない」と考えられていたので、どのように研究を進めたらいいのかがわからず、私はたいへん悩んだ。

ごくごく当たり前のコナラ林やアカマツ林、モウソウチク林を前に、どこから調査を始めるのか、どうしたら研究になるのかといったことを考えながら、数カ月間、毎日毎日私は「身近な自然」に通った。そして第四紀に堆積した丘陵地帯の地質、つまり砂層、礫層、砂礫層、粘土層などが植生と関係があることがわかりだしたところから、調査は進展し始めた。

京阪奈丘陵のオオタカ

私が破壊が進む身近な自然の調査研究に深入りするようになったのは、関西学研都市の建設が進む京阪奈丘陵でオオタカが営巣していることがわかって、オオタカの保護運動を始めてからである。日本野鳥の会京都支部がオオタカの保護にあまり関心を示さなかったので、植物生態学の研究者である私が鳥の研究者らとともに「オオタカの保護を考える会」を結成して、オオタカの調査に京阪奈丘陵に足繁く通った。いまでこそオオタカの営巣があちこちで確認されているし、オオタカが希少種だとは思わないが、その頃、オオタカに関する資料はきわめて限られていた。オオタカは全国で約二〇〇カ所しか確認されておらず、絶滅がきわめて心配な鳥類の一つであるとされていた。

当時、オオタカの巣は見つからなかったものの、オオタカの幼鳥を確認して、オオタカが関西学研都市建設予定地で営巣していることを確かめた。そこで、ブルドーザーが走り回って工事が進行中であったが、工事を一時中止してオオタカに関する調査を行うべきであるという要望書を京都府知事に提出した。

その後、私たちが手弁当で続けたオオタカの生態学的な調査に基づいて京都府知事と交渉を重ね、ついに工事を一時中止してオオタカの調査を行うという決定がなされた。これは京都府知事の大英断であった。しかし、その後の調査は科学的調査とはいいがたいもので、結局その調査に基づいて工事は再開され、オオタカは巣を放棄し、再び戻ってくることはなかった。

ほとんど調査されていなかった「身近な自然」

私たちはオオタカの調査と並行して植物の調査も始めた。まずどんな植物がいるのかを調べる必要があると考えたが、調べだすと、「身近な自然」がそれまでに。ほとんど調べられていないことがよくわかった。次々と予期しない植物に出会い、だんだん行くのが楽しみになった。そして、いままで顧みられなかった林や田んぼ、田んぼの畦やため池が、実に豊かな生物相を持つ自然であることがわかってきた。

絶滅の危機に瀕している「保護上重要な植物種」(レッドデータブック)に名を連ねているヌマカゼクサやイヌセンブリなどが、里山に生育していることがわかったのもその頃である。イヌセンブリは一年生草本で、毎年種子が発芽して生活史が始まるという植物である。この植物はそれまで淀川などの河川敷のヨシ原の冠水するような場所に生育する植物だと思っていたので、林の中のため池で見つかったことはたいへん意外であった。調べてみると、毎年水位が定期的に低下するというため池特有の条件を、イヌセンブリはうまく利用して生活していることがわかった。つまり、水位が変動するという意味では「不安定」で、かつ毎年同じ頃に水位が変動するという意味では「安定的」な環境があってはじめて、イヌセンブリの生活が成り立っていることがわかってきた。

イヌセンブリは一時的に冠水しても耐えることができるが、水中で発芽して大きくなることはできない。つまり、ため池の谷頭部で水位が低下したときに発芽して、発芽後水位が回復してくる頃には冠水に耐えられる大きさに生育している——こうした環境をうまく利用して、イヌセンブリは生活していることがわかったのである。

ため池の中にはミズゴケ湿原があってトキソウやサギソウがあったり、大きな河川の岩盤の川岸にしか生育していないと思っていたカワラハンノキが林の中に見つかったりした。田んぼの畦の調査でニワフジという植物に出会ったときも、田んぼの畦がこれまでいかに調べられていないかを思い知らされることになった。ニワフジは山中の岸壁や川縁の岩壁に生育する植物だと思っていたので、田んぼの畦にあるのは栽培されていたものが逃げ出したのではないかと考えたが、京都だけでなく大阪・高槻市の中山間地の田んぼの畦にもいて、田んぼの畦は本来の生育環境なのだと思うようになった。しかも、ニワフジは実に変幻自在で、草丈一センチにも満たないで毎年花をつけるものがある一方で、手入れの悪い畦などでは時に四〇〜五〇センチにもなるものがあったりした。

田んぼの畦は「日本の草地」

田んぼの畦の植物を調べる過程で、私たちはそこが人為的に維持されてきた膨大な草地であることに気づいた。畦の一つひとつは細いものだが、畦から畦へとつながって、いわば膨大な草地をなしているのである。それまで日本の植生について議論されても、田んぼの畦が「日本の草地」であるという議論はなかった。しかも、中国東北部(旧満州)から朝鮮半島をへて日本まで分布する満鮮要素と呼ばれる植物の分布から、日本の田んぼの畦は中国東北部にある草甸(そうでん、meadow)という植生につながることがわかってきた。

コナラ林やアカマツ林も、朝鮮半島から中国東北部にかけての暖温帯の落葉広葉樹林につながる植生であることがわかってきた。しかも、アカマツ林やコナラ林はユーラシア大陸の暖温帯性−温帯性の構成メンバーからなる生物群集で、亜熱帯性や熱帯性の構成メンバーからなる常緑広葉樹林や竹林とは明らかに違うことも明確になってきた。アカマツ林やコナラ林のキノコは温帯性で秋に発生する傾向があるのに対して、常緑広葉樹林や竹林のキノコは亜熱帯性・熱帯性で夏に発生するものが多い。アリのように移動できる動物をみても、アカマツ林やコナラ林のアリと、隣接している常緑広葉樹林や竹林のアリは、はっきりと異なっている。

里山とはどんな自然か。
そしていま里山で何が起きているか

林業的自然と農業的自然のセット

研究を始めてすぐに、たいへん示唆に富む研究がすでに行われていることがわかった。橿原昆虫館の日比さんらによる水生昆虫の生活に関する研究に、私は大いに刺激を受けた。

日比さんらの研究によれば、絶滅が心配されているミズカマキリ、ゲンゴロウ、クロゲンゴロウ、タイコウチなどの水生昆虫は、初夏から秋にかけて、林の中や林縁部にあるため池から姿を消すという。調べてみるとその間、これらの水生昆虫はため池から一〜一・五キロの範囲内の田んぼへ行って子育てをしている。そこで気がついたのは、これらの昆虫が子育てをする田んぼがいま、耕作放棄されて田んぼでなくなっている、ということである。田んぼがなくなれば、これらの水生昆虫は絶滅に追いやられることになる。

水生昆虫の研究に刺激を受けて、私たちは植物や動物の生活を調べ始めた。ニホンイシガメやニホンノウサギなどの生活、田んぼの畦の植物の生活などを調べてみると、薪炭生産に使われてきた林業的自然とそれに隣接している田んぼや田んぼの畦、ため池や用水路などからなる農業的自然がセットになっていないと、これらの生き物は生き残れないということがわかってきた。

このセットになった自然を私たちは里山と呼び、里山を溝成する林を里也林と呼ぶことにした。里山は、田んぼや田んぼの畦、ため池や用水路、里山林などの要素から構成される一種の景観であるということができる。しかも、里山は文化的・歴史的景観でもある。司馬遼太郎は「街道をゆく」の中で、高知県檮原町の千枚田を万里の長城にも匹敵する「農民の文化遺産である」と述べているが、まさに名言である。

林業や農業の様変わりが自然を荒廃させた

薪炭林として利用されてきた林は、一九六〇年代から一九七〇年代にかけての高度成長期以降に利用されなくなって、日本の山地は緑濃い林に覆われるようになった。しかしこのことは、生態学的には単調で、生き物の住み場所の多様性が失われた、生き物には住みにくい自然になったことを意味する。かつての林業は次々と伐採することによって、生き物の住み場所の多様性を無意識ながら保証していたのだ。利用されなくなると、林業的利用によって人為的に中断されていた里山林の遷移が進み出し、暖温帯では常緑広葉樹林への移行が始まっている。「四季色を変える里山林」は、伐採による利用によって維持されてきた林だったのだ。

また、農地の構造改善事業とコメの生産調整のための減反政策で、日本の農業的自然も大きく様変わりしている。最近、メダカが絶滅に瀕している生物の仲間入りをしたのも、こういった農業的自然の様変わりの結果である。

私たちの周辺から、かつてごくごく身近にいた植物や動物がいなくなったり、数が減って滅多に見ることもできなくなってしまっている。日本産の高等植物約五三〇〇種のうち、約三分の一が何らかの意味で絶滅が心配される状況なのである。自然の荒廃が進んでいる。しかも重要なのは、稀産種や特殊な環境に生育する珍しい植物が絶滅に瀕しているのではなくて、きわめて身近なところにいた、ごく普通の植物が絶滅に向かっていることだ。事態はきわめて深刻である。

里山の生き物が絶滅に向かっているという事態は、次の世代にこの美しい日本の自然を受け渡したいと考えている我々にとって、深刻な問題提起であった。なぜ生き物が絶滅に向かっているのかを明らかにしなければ、どうしたら生き物を絶滅から救えるかについて考えることはできない。

しかし、理由はすぐにわかった。林業や農業の様変わりによる林や農地の管理放棄や農業構造改善などによって、住み場所の多様性が失われたためである。住み場所の多様性が失われれば、生物の多様性が失われるというのは当たり前のことである。

農政と林政が縦割で行われるならば、林業的自然と農業的自然とがセットになった里山の生物の多様性は守れないことを、私たちの里山研究は示している。

日本鱗翅学会などの調査報告に基づいて、里山が姿を変えるにつれて数を激減させている里山のチョウについても触れておこう。いま日本のチョウの中で絶滅が心配されているのは、草原性のチョウだという。採草地が減少し、食草であるクララが姿を消す中でオオルリシジミが激減している。また、草丈の低いシバ章地が減って、スミレを食草とするオオウラギンヒョウモンが姿を消しつつある。ヒョウモンモドキも湿地や田んぼの周辺などが姿を変える中で、絶滅危倶種に名を違ねることになった。すべて人間の営為が関係しているという。

里山林が管理放棄されることと関連して、林床の植物相が変化してギフチョウ、ヒメギフチョウなどの姿も減ってきている。どれも農業や林業の様変わりと関係がある。

里山の新しい価値

里山林は繰り返し繰り返し伐採されて、薪炭つまりエネルギー資源として使われてきた。伐採何年後かには、再生した林がまた伐採されて薪炭として利用される。しかも、里山林が繰り返し伐採され再生することによって、多様な環境がつくりだされ、生物の多様性が保全されてきた。里山林は日本の生物の住み場所として、かけがえのない自然であったのだ。

農業的自然の意味は、耕作放棄や農地転用による農地の荒廃や食糧問題の観点からだけでなく、農業を行うことによって保全されてきた生物の多様性が危機に瀕している状況からも間われなければならない。危機的な状況にある日本の生物の多様性を保全するうえで、里山の理解と薪しい里山管理が求められているといえる。このことに関しては次回に詳しく述べたい。里山問題を論ずるときに、もう一つの切り口が必要である。それは里山が取り上げられるようになった社会的背景である。資源を使い捨てにし、環境を破壊して走り続けてきた杜会が行き詰まって、新しい社会、新しい人と自然とのかかわり方が求められるようになったことと、里山が注目されるようになったこととは、無関係ではない。

新しい杜会を求めることは、二〇世紀型の社会に代わって自然の循環にかなった社会で、省資源で、分子ゴミを含めてゴミ資源をリサイクルし、リユースし、再生可能な資源を使う持続可能な杜会を目指すことになるだろう。新しい杜会は、世代の公平性を保証し、次の世代に負の遺産を残さず、続く世代の可能性を奪うことなく、資源や環境を次世代に継承できる社会でなくてはならない。生物の多様性を維持することも、持続可能な社会にとって不可欠である。

右に述べたように、里山問題が生物の多様性の維持や再生可能な資源を考えることとつながるとすれば、里山問題を考えることを通して新しい社会を展望することができるのではないか。それが里山の持つ新しい価値ということになるだろう。

初出: 「月刊社会民主」2002年2月号