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里山を考える②
里山の未来をひらく
新しい農業・新しい林業

田端英雄

「かつての里山」で進む生物の多様性の喪失

山は緑豊かな森林に覆われ、田畑もよく耕されていて、日本の景観は美しい。その美しい景観が、かつて薪炭生産のために伐り続けられてきた森林やマツタケ山などからなる林業的自然=里山林と、それに隣接する田んぼ、畦、ため池、用水路などからなる農業的自然とからなる里山である。ところが、前号で述べたように、その美しい自然が現在、危機的な状況にある。しかも、その荒廃は人為によって引き起こされたものであり、原因は林業や農業の様変わりによる管理放棄である。だから、あちこちで里山という言薬が使われるようになったが、今でも炭や薪を生産し、中山間地の農地の耕作放棄をしていない地域を除けば、実際には里山はもはや存在せず、かつて里山で魅つた泊然があるだ竹である。そのような意味では、本稿でも「かつての里山」というべきなのであろう。

その管理放棄された「かつての里山」で恐ろしいことが進行している。生物の多様性の喪失である。日本の植物の約三分の一が何らかの意味で絶滅が心配されるというのだから、大変なことである。しかし、恐ろしいのはその先である。

植物の花の多くは一つの花の中に雄しべと雌しべを持っているので、同じ花の中で交配が行われると考えている人が多いと思う。だが、実は植物たちは近親間の交配を避ける機構を発達きせていて、花粉の運搬を水や風、あるいは鳥に頼るものもいるが、多くの植物は昆虫たちに頼っている。植物の出す蜜はその犬事な仕事をやってもらう昆虫たちへの報酬なのである。報酬が花粉である場合もある。

だから、昆虫がいなくなるということは、植物の生殖活動がうまく機能しなくなることを意味している。毎年花をつけていても、花粉を運搬してくれる昆虫がいなくなったり少なくなったりして、種子ができなくなったり、種子の数が少なくなったりすることを意味している。例えば、何百年後かに絶滅する植物が、種子をつくることなく毎年花を咲かせている—このようなことが現在、自然界で進行しているのだ。

レッドデータブックを読むことは、実はもっと多くの生物が絶滅の危機に瀕していることを読みとることでもある。植物に関していえば,こんな恐ろしいことが、何百年という気が遠くなるような時間をかけて、ゆっくり進行していると考えるべきなのである。

生物の多様性というと、日本ではすぐに熱帯林が問題になる。そして、生物の多様佳保全は科学研究の対象で、熱帯研究などに研究費をつけることが日本が果たすべき役割であるかのように考えられている節がある。しかし、実はわが国の生物の多様性保全のために国内で何をするべきか、あるいは何ができるかが問題であり、それに明快に答えることこそが、生物の多様性保全でまず日本が果たすべき役割なのである。生物の多様性に関する科学研究は大切であるが、この問題は優れて農林漁業が解決しなければならない問題であると考えなければならない。

私は、これから里山をどうするかを考えるヒントは過去の里山利用にあると考えている。かつて先人たちは生物の多様性保全などを意風して林業や農業をやってきたわけではない。しかも膨大な面積の里山林や耕作放棄田の新しい管理は、最近あちこちで話題になっているような市民による里山管理ではとても無理である。やはり新しい林業や農業を考える方向でしか、この問題は扱えないと思う。

里山林をどうするか

薪炭生産をしていたとき、里山林はエネルギー資源として使われていた。そこで、私は同じようにこれをエネルギー資源として考え、その林業的利用を考えればよいのではないか、そして、もしそれが可能ならば、薪炭生産のためにつくり上げられてきた里山林の管理技術が基本的に使えるのではないか、などと考えていたとき、里山研究会の炭焼きに関する.研究会に招いた小池浩一郎さん(島根大学)から「炭を焼くのも電気をつくるのも同じだ」といわれて、目の前が一挙に開けた。いわゆるバイオマス(生物燃料)の利用である。

薪炭林として使ってきた広葉樹林は、伐採と再生を繰り返してきたのだから、まさに再生可能な資源であり持続可能な資源利用の手本のようなものである。そこで私が提案したいのは、里山林の木質バイオマス(木質燃料)を利用した小型分散型の熱電併給システム(コジェネレイション)による里山林の持続的利用と持続的管理である。約三三〇〇ヘクタールの里山林があれば、一五年伐期で里山林から供給されるバイオマスだけで、一時問当たり一トンの木質バイオマスを使って一八四〇キロワットの発電が可能である。四人世帯の平均電力使用量をもとに計算すると,この電力は約四六〇〇世帯分に相当する。

小型であるうえに環境負荷がほとんどないこのシステムは、消費地近くに設置可能であるため、廃熱利用が可能で、かつ送電過程での電力ロスがない、などの利点を持つ。廃熱利用ができず、送電過程でロスがあり、エネルギー利用効率が三五%程度の大規模集中発電とは大いに異なり、熱利用を考えることによってエネルギー効率を大きくすることができる。

さらに木質バイオマス利用は、里山林の年間成長量以下の伐採を守るならば、環境への二酸化炭素負荷はゼロである。したがって、里山からの木質バイオマスを使って生産された電気は、いわばエコマーク付きの商品ということができる。

だから、この電気をエコマーク付き商品として売ることができる環境が是非とも必要である。それには、電力の一部自由化ではなく、本格的な電力市場の自由化を待たねばならない。電力市場の自由化が実現せず、電力会社に売電するのでは、採算が合わないのだ。現状では自家発電でしか、里山林の木質バイオマス(木質燃料)を利用した小型分散型の熱電併給システム(コジェネレイション)の実現はむずかしい。

木質バイオマス利用の先進国スウェーデンは、地域暖房というインフラがあったことも確かだが、政府がNGOを信頼して行政とも協力し、さらにそこにプライベート・セクターが入ってバイオマス生産、熱と電気の生産と流通、バイオマス利用のシステムの研究開発などを行い、バイオマス利用の確固とした仕組みをつくり上げてきた。ヴェクショウ市のように市が大規模なコジェネレイションシステムを稼働させている例もあれば、企業が稼働させているシステムもある。

日本と同じように石油資源を輸入に頼っているスウェーデンは、石油危機のときに自前のエネルギー資源はないかと真剣に考え、木質バイオマス利用にたどりついた。しかもその後、木質バイオマスを使いやすいエネルギー資源とするために時間をかけて取り組み炭素税・硫黄税などいわゆる環境税を課すことによって、木質バイオマスを最も安価で使いやすい民生用エネルギー資源にすることに成功した。今日では総エネルギー需要の二〇%近くをバイオマスが担っている。

木質バイオマスを使いやすくするための環境税などの政策支援がない日本でも、里山林を林業的に再利用するために、今こそ木質バイオマス利用を始めなくてはならない、と私は主張している。なぜなら、自然の荒廃だけでなく、林業が疲弊する中で廃業する人たちが増えて、各地で蓄積されてきた里山を管理する技術・ノウハウの継承が困難になってきているからだ。もう五年、一〇年は待てないのである。技術が失われれば、里山再生の夢はうち砕かれてしまう。

木質バイオマスを利用しやすい状況をつくらずに、バイオマス利用に補助金をつけようとする施策には、あまり期待できない。現在は、里山林にどれだけのバイオマス蓄積があるのか、、どれだけの年間成長量があるのか、どのように伐出すればいいのか、地域ごとにどのようなパイオマス利用が最適あるいは実現可能なのか、などの墓礎釣調査を踏まえて、バイオマス利用を考えるべきときである。補助金をつけて減価償却もできずに破産するようなことにしてはならない。日本独自のコジェネ・プラントもできてはきたが、まだ五年で減価償却できるようなプラントは確立していない。ただし、もう一息のところまできているので、日本的木質バイオマス利用に適したプラントが近々完成することは十分に期待できる。

木質バイオマスの利用では、必ずしもコジェネだけでなく、もっと身近なところで薪で暖房をしていた頃のように、家庭や小規模事業所などの小規模利用を真剣に考えるのも意味がありそうだ。それはペレットの利用である。裏山のバイオマスを家庭で使うとすれば、どうしても住民の支持を必要とする。住民が参加して町や村の環境政策やエネルギー政策を決めていくという、新しい行政の手法が求められるところである。

里山林の再生はエネルギー利用にとどまらない。かつて里山林からは薪や炭のほかに柴がとられていた。里山林の林床の低木である。その適切な利用も考えないと、里山林は蘇らない。これは粗朶(そだ,伐り取った樹の枝のこと)として使う道を開きたい。河川管理、暗渠排水、果樹栽培や土木工事で生物材料を使った廃棄物を出さない技術として見直したいものである。

粗朶を河川管理に使う技術は信濃川流域や岐阜県などに残っていて、大きな河川の河口堰近くの河床保全などに使われているが、もっと広範に粗朶を見直し、粗朶を生かすことを考える必要がある。材料としての粗朶はやはり再生可能な資源という観点から見直すことができる。

里山林の林業を興すにあたって、炭を燃料としてではなく、下水処理や河川の水質管理などに使うことも、声を大にして主張したい。炭を使って日本の川を泳げる川に蘇らせよう、と林業のサイドから提案したい。合併浄化槽に炭を使った三次処理槽をつけるだけで、処理水は飲める水質になる。

さらにはもう一度日本のアカマツ林に手を加え、マツタケ山を造成するというのも、里山管理の一つである。今は林業が柱材の生産に特化してしまっているが、本来林業はもっと幅の広い産業であったことを今一度想起する必要がある。マツタケ山を造成すれば粗朶が出るので、粗朶利用につなげることができる。

このように里山林の多様な利用が可能になれば、里山は生き返り、生き物も戻ってくるだろう。持続的な里山林管理が姿を見せることになり、人と自然との新しい関わりがつくられることになる。新しい雇用も少しは創出できるだろうし、里山林の管理を通して持続可能な社会を垣間見ることもできよう。小規模分敷型のコジェネ・プラントのように、ローカルな産業、ローカルな経済の可能性にも挑戦することになるだろう。そして、製品の遠距離運搬で分子ゴミをまき散らすことについても、経済と環境の両面から見直すことが必要になるだろう。

中山間地の農地をどうするか

先進国の農業はいずれも、これまでに生産調整や価格維持のための減反を経験してきた。その中で、ドイツなどでは減反による耕作放棄によって引き起こされる農地の生産力低下を心配して、ナタネ栽培が進められた。ナタネ油をメチルエステル化してディーゼルオイル(バイオディーゼル、BDF)を生産するのだが、その化学反応は簡単なものである。一九九三年に五万五〇〇〇ヘクタールだったナタネの栽培面積は毎年増え、一九九五年には三〇万ヘクタールになった。

ドイツは一九九六年、バイオディーゼルの工業規模生産を始めた。そして一九九七年にはバイオディーゼルのスタンドが八○○カ所にもなった。もちろん、バイオディーゼルによる環境負荷がディーゼルオイルと比べると格段に少ないことや、再生可能であること、化石燃料を代替できること、エネルギー供給安保からみて利点があること、などなどバイオディーゼルの優れた特性があって有利に事が運んだのは間違いない。さらに大きいのは雇用の創出だといわれている。

しかし、何よりも産業界の反応と政治の支援が犬きかった。ベンツやフォルクスワーゲンなどドイツ自動車産業界は、いち早くバイオディーゼルの生産に呼応して対策を打ち出した。一方、政治は減反農地でのナタネ栽培に転作奨励金を出して政策支援を行い、さらにバイオディーゼルの石油税を免除した。

エステル化した廃食油をバイオディーゼルとして使うことを発表すると、すぐに軽油引取税を課税するといって来る日本とは大違いである。昨年、滋賀県新旭町で行われた「菜の花サミット」でバイオディーゼルに対する軽油引取税の課税をやめるようにアピールを出したが、今のところ何の反応もない。ずいぶん大きな彼我の違いである。

日本のバイオディーゼルをめぐる状況は寂しい限りだが、それでも日本で里山を保全するためには、廃食油を集めて行うバイオディーゼルの生産ではなく、既存の補助金制度をきまざまに組み合わせてナタネ栽培を進め、たとえ政治による政策支援がなくても、直接ナタネ油からバイオディーゼルを生産する仕組みをスタートさせる必要がある。耕作放棄によって農地の生産力を低下させて、将来の食糧生産に不安を抱かせる減反に補助金を出すのではなく、耕作したうえで直接所得保障と組み合わせることも仕組みの一つであるが、その実現にはまず政治に頑張ってもらわなければならない。

日本でのナタネ栽培→バイオディーゼル生産→バイオディーゼル使用を実現するために、私は今、耕作者と使用者との直接的結合による仕組みづくりに最も魅力を感じている。しかし、ナタネの流通価格が安いので、直接所得保障のような仕組みの必要性を痛切に感じている。

里山再生の過程で市民はどんな役割を担うのか

里山を使うことによって蘇らせるには、使う主体が誰であるかが間われなくてはならない。それは当然のことながら住民である。住民にとっての里山とは、裏山の林であり、また近くの田んぼや畦、ため池や用水路である。したがって、住民が里山の持ち主であることが多い。その里山を舞台に人と自然の新しい関係をつくり出そうというのであるから、住民の合意なしには前に進めない。里山林のバイオマス利用も、まず住民が使うことから始まる。しかも、木質バイオマスの値段を安くして使いやすくするような政策支援がないところでバイオマスを使おうというのだから、住民の合意と支持が必要である。

里山林の再生可能なエネルギー資源を利用する日常生活は、資源を再利用し、循環させる社会をつくることにつながり、結果的に生物の多様性を保全し、次の世代に負の遺産を残すことなく環境や資源を継承することができる。バイオマスを使うことによって、環境に対する負荷の少ない生活をすることになる。つまり、バイオマスを使う町や村に住むこと一が、無理のない自然体で環境に対する負荷の少ない生活をすることになり、その町や村に住んでいることが地球環境の維持にもつながる。そのような意味で持続可能な社会を展望できるとすれば、孫の世代も曾孫の世代も住み続けたくなる町を創る、新しい町づくりにもなるだろう。

バイオマスの生産は植物による太陽エネルギーの固定によって可能になる。だから、植物が健全に生育できる場所(土地)と水はバイオマスエネルギーを確保するための基盤である。その墓盤を保全しなければバイオマスの持続的供給は不可能になるので、バイオマスの安定的供給は町や村の環境をどう保全するかを考えることにもなる。

初出: 「月刊社会民主」2002年3月号