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総合討論

田端: 林業の問題でもありますから,北尾さんに手伝っていただいて議論をすすめていきたいと思います。第1部,第2部,第3部とあるんですが,第1部はあまり問題がないと思うので,第2部,第3部を中心に議論をすすめたい。昨日吉津さんからきつい意見をいただいて,改めて吉津さんは私たちにとって大切な人だなと思った次第です。昨日の話はショックを受けました。田舎に魅力がなければ田舎で百姓やるやつはいないとかいう話や補助金の話は,前から聞いている話です。しかし,社会主義が資本主義に負けるような話だというのは結構きつい話で,私たちは気づかずにそんな議論をしていたのかなとはっとさせられました。

最初にプリントを用意しましたから,司会者の特権で最初に発言させていただきます。安定社会に話がでましたが,私たちは個体数なんかが変動するが長期的に見れば安定していることを安定していると考えます。里山の自然の中にも書いておきましたが,里山の自然は結構荒っぽく変動する。例えば,ため池などは水を使うときには水位が何メートルも変動する。しかし,この変動は定期的に起きて水位はまた回復する。こういった「不安定でかつ安定な」環境にため池の生物は生活している。関西学研都市ではそういうため池が,行政によって買い取られて水位が変動しなくなったら,わたしたちが問題にしていた植物はその段階で絶滅してしまった。そういう安定というのを私たちは考えていて,里山林でも,きわめてドラスティックに12年から15年に1回ぐらいの頻度で,ある面積ばさっと伐るというような,不安定でかつ安定な環境というものを考えています。

北尾さんの安定社会というのをちゃんと理解していないところもありますが,たぶん,政府の出しているエネルギー統計などを見ましても,エネルギーの需要予測はどんどん増えていくといったもので,その増え続けるエネルギー需要予測に基づいてエネルギー問題を考えていこうとする社会に待ったをかけるというか,本当にエネルギーを際限なく消費する社会は必要なのかどうかを問うといった意味で,北尾さんは安定社会という言葉を使われたのではないかと思うのです。安定社会をテーマに開催した私たちの里山のシンポジウムはそういった視点でやりました(報告書「生態学から見た安定社会ー里山の自然とその持続的利用」参照)。それで吉津さんは納得されるかどうかわかりませんが,改めて私たちにとって吉津さんは大切な人だなあと思ったわけです。しばしば私たちは議論をしているときに外の世界からどう見えるかということを忘れがちです。そういった意味で,今後ともはっとさせられる指摘をしていただくよう吉津さんにはお願いしたいと思いますが,私たちが目指しているところが,本当に社会主義のようになるかどうかの判断はしばらく待ってほしいし,この問題に深入りしないで今日の議論を進めたいと思います。

私たちは里山の生物を調べてきたのですが,里山の管理を巡って到達したところは私たちが日常の生活で何をやるかということ,生産とか消費とかといった現代の文化を見直すというか変革していくというか,そういったところに行き着いたということです。省エネだとか節電だとか,環境負荷の少ない生産だとか消費だとかを考えていくことと,里山管理がつながってきたということです。そういう意味でも,里山管理の手法として小型分散型のバイオマス熱電併給システムを考えるにいたった(注: 熱電併給とは電気と熱を利用することで,議論の中で熱電併給といったりコジェネといったりしている)。他の分野のエネルギーの専門家たちが到達しているところとよく似ていて,同じ土俵で里山問題も議論できる。私たちはこの問題を里山管理と結びつけて考えていきたいと考えています。そのときに,里山管理だけでなく,人工林管理,生ゴミ処理,建築廃材の処理,製材業の廃材,造園業で出る剪定枝の処理などとリンクさせて考えることはできないかと考えているわけです。この可能性について初めて議論するわけですから,いろいろな議論が出ると思いますが,小島君がいい問題提起をしてくれました。それを巡っても議論が出るでしょうが,私たちはこれを誰がやるのかということの議論を深めていかないといけないと思っています。

そのために今日私が用意したプリントの大部分の資料は,レクスタというグループの一人である阪大理学部化学教室の福本さんに急遽提供していただいたものです。一部分,今年(1997年度)の環境白書からとりました。私たちは,小型分散型のバイオマス熱電併給システムを金科玉条にして議論するのでなくて,林があるところではバイオマスを,波が使えるところは波を,太陽光しか使えないところでは太陽光をというように,福本さんのプリントにあるように様々な分散型のエネルギーシステムを考えようということです。ところで,林が使えるところでは,バイオマスを使った分散型のエネルギーシステムと「燃えない炭」生産を,里山林の管理につなげていこうというのが私たちの提案です。環境白書からとった図が示すように,年々エネルギーのロスが増えているのが問題で,こういうシステムの上に私たちの未来を考えるのはやめようではないか。いかにロスを少なくするかということであろうと思います。福本さんの図に「うんこパワー発電」というのがあっておもしろいと思いました。原子力発電は30%強の,分散型の小型熱電併給システムは85%くらいの,エネルギー効率です。私たちはこの分散型のコジェネシステムと里山管理をつないでいこうということを提案しているわけです。それを誰がやるのかということを議論していただきたい。わたしたちが目指している,現代の林業像と里山を誰がどう保全していくのかということとの接点を真剣に議論していただきたいと思っています。

「たもかく」の手法に関するセッションは,行政とは無関係なところで新しい里山管理を考えていらっしゃいます。とくに吉津さんは,志を同じくするところと提携関係を結んで協同組合というようなものをつくって全国展開していこうとされているように見えます。「たもかく」の手法をいろいろなところに適用できないのかどうかを議論していただきたい。吉津さんに対する質問が多くなるかもしれません。森林組合が吉津さんのイメージの中に入っているのかどうか。私などは森林管理のプロの集団を持っている森林組合にがんばってほしいと思っていますが,多額の負債など森林組合には森林組合の問題があるようで,森林組合がそういった能力を持っているのかどうかも知りたいところです。現代の林業像をどう描くのかということが大事な問題のように思います。この点で私は力不足なので北尾さんに助けてもらって議論を進めたいと思います。どなたか口火を切っていただけるとうれしく思います。

只木: プレック研究所の只木と申します。議論にはいる前にコメントさせていただきたい。打浪さんが示された図の中に出てきた森林の効用を39 兆円に換算している話ですが,昭和47 年に林野庁が12兆8000億円に換算しました。実は私は林業試験場にいて,それをつくるのに関係しました。先ほど示されたものは6項目になっていましたが,その当時,森林の公益的機能は5項目でした。その5項目がどうして取り上げられたかともうしますと,お金に換算できるものだけが取り上げられた。私は森林の効用として45項目ほど取り上げていますが,そのうち数字になりそうな5項目だけ取り上げた。しかし,そこにはインチキがあったということを申し上げておきたい。一番のインチキは酸素供給です。これは全くのインチキであります。元のデータは私がつくりました。ですから責任の大半は私にあります。日本の森林の純生産量を計算して,CO2がこれだけ取り入れられて,有機物がこれだけできる,差し引きこれだけの酸素が出るという話です。当時出されていた福岡先生のものも酸素が出て行くところまでしかない。ところが,森林では落ち葉の分解があります。この分解のために植物が放出したのとほぼ同じ量の酸素が必要です。ですから酸素に関してはプラスマイナスゼロなのです。この点が間違って伝えられていて,酸素供給がいかにも森林の効果のような話になっています。どうしてお金に換算したかといいますと,放出する酸素の量を工場渡しの酸素ボンベの値段に換算するという方法でやっております。それはともかくとして,酸素が放出されるところしか換算されていない。そして12兆8000億円が物価スライドして今39兆円になっております。ところが先ほどの表にもありましたように39兆円のうち18兆円が酸素供給能であります。これは差し引いて考えていただきたい。これをいつまでも使っておりますと林業サイドはいかにも知恵のない人間の集団のように思われますので,20年間このことをいい続けているのですが,林野庁はいまだに訂正してくれない。私は困っています。詳しくは,私の本をお読みください。だだし,このことは森林の公益的機能を低く評価しろといっているのではありません。評価する価値のないものを評価したところが間違いであって,そのほかの評価するべきものがたくさんあります。45項目のうちのわずか5項目だけを評価して,これが森林の価値であるというつもりはありません。むしろその何倍もの価値がある。ただし他のものはなかなか金銭的に評価しにくいものなので,評価しやすいものだけを評価したものが12兆8000億円です。これはモナリザの絵を,絵具代とカンバス代とダヴィンチの日当を合計してモナリザの絵の評価であるといっているようなものです。森林の価値というのはお金に換算できないところにあるということを強調しておきたい。

本論に移らせていただきます。木質エネルギーですが,これは里山を次々に更新しながらやっていく,そのおかげで里山が活性化するのだという理屈はよくわかります。しかし,問題なのは,更新していく材を熱源として使って発電するという考え方であります。私は生材を発電に持っていくというところに抵抗があります。しかし,さきに話のありました建築廃材を発電エネルギーとして使うというのは大賛成です。その理由を申します。木材は炭素の固まりのようなものです。乾燥重量にして約半分が炭素であります。昔から日本人はその木材を家にしたりいろいろ利用しますが,一度だけで捨てません。削り直しつぎ直しして何回も何回も使ってきたものです。最終的にもう使えないというところで火をつけて自然の大循環へ繰り込んだ。これが木材の使い方であったと思います。これはなにを意味するかといいますと,いったん固定した炭素をできるだけ大気に出さない,いったん貯留しておくという意味がある。ある先生にいわせると,木造住宅の集合である都会は炭素の貯留場所として第二の森林であるというわけです。森林というものは他の植物群落に比べるとバイオマスが非常に大きい。幹や根に炭素をため込んでいるからバイオマスが大きい。世界の植物バイオマスのうち90%を森林が持っています。これは毎年毎年の生長量を,幹のような形で炭素を詰め込んで貯留しておるというところに大きな意味がある。それを木材として伐り出して,それを何十年何百年と炭素をため込んだまま使っていくというところに意味があるわけです。この意味をしっかり考えないといけない。過去20〜30年,世界の学者が集まって森林というものはCO2の吸収源であるか供給源であるかという議論ばかりしてきました。シンク(sink)かソース(source)かという議論ばかりしてきました。そこで抜けていたのがストックなのです。第3のsを忘れた議論がつい最近まで行われていました。炭素を貯留(stock)しているというところに森林なり木材なりの意味がある。従って,里山を伐って更新させ活性化するというのはけっこうなのですが,材を炭素を蓄えたままいったん使って,その後のエネルギー利用なら賛成なのですが,いきなり生材を発電に使うというのはどうも賛同しかねる。これが社会に出ていったときに一般社会の人たちがどうとらえるかというのは怖いことだと思う。それでは酸素の貯留はどうするかというと,実際は家にしたり,調度品にしたり,机にしたり,タンスにしたりして炭素の貯留として使ってもらうのがいいのだけれど,里山つまり広葉樹2次林の材はそういうふうに使うのは無理でしょう。そうなると炭素の形で蓄えるのは炭だろう。それもすぐ燃やしてしまう炭ではなくて,炭化させて炭を蓄積するということではないか。炭は腐りませんから,昔は村と村との境界に炭を埋めたりして境界がわかるようにした。それではどうするかといわれると困るが,うまく炭化する技術をつくり,うまいシステムを考えて炭にしてどんどん蓄える。国営事業か何かでやらせればいいのではないかと思うのです。もし石油がストップしたら,炭を掘り出して使いましょうという時代がくるかもしれない。実は,第1次第2次石油ショックがあったとき,エネルギー問題が騒がれました。その時私は計算をしました。日本の里山500万ヘクタールだか 600万ヘクタールをいくつかのブロックにわけて,うまい森林管理システムの中で,伐る萌芽させるの仕組みをうまくまわして,国営の工場をおいて炭化させるという計算をした。すると昭和50年代の国内のエネルギー消費の半分だか1/3だかを里山でまかなえるということになりました。今はもっとエネルギー消費量が増えていますから,その計算では成り立ちませんが,そんな計算をして新聞にも出ていますし,「資源」という雑誌にも載っています。そんなわけで,使った材を最後に発電に使って自然の大循環に戻すというのは大賛成ですが,里山を次々伐って生材を発電に使っていくというのにはちょっと賛成しかねる。

田端: ありがとうございました。少し発電を強調しましたが,私たちの提案は炭と発電なのです。里山林を伐って利用することによって里山を保全しようというのですから,利用できなければ伐れないわけです。そこで「新しい炭」と発電のために里山林を伐ることを提案した。只木さんのように炭を貯蔵するというのも一つの考え方だと思います。私たちは今のままの炭では高くてだめだ。もっと大規模に安価に炭を生産する方法を考える必要がある。私たちの研究会で問題になったのは「燃えない炭」でした。これは全く新しい炭ですからこれを提案してみようということになった。基本的に,里山林の管理は,かつて炭焼きをしていた時のような技術体系の上に新しい利用を考えるべきだという考えですから,炭にたいへんな思い入れがあります。炭を生かす方法があれば炭に大賛成です。只木さんの考えはこれから議論になっていくと思います。もう少し詳しく話していただけるとうれしいのですが,たとえば,炭素源の備蓄が里山を利用する林業の具体的な提案になりますか。

只木: 石油が来なくなるというので,明日燃やす燃料をどうするかという非常なエネルギー危機の時代があった。とうぜん木を燃やそうという話がありました。日本の森林資源がエネルギーソースとしてどれだけになるか,というので新聞記者のおだてに乗ってそんな話をしたわけです。笑う人はいませんでした。当時閉山する炭坑があるのでそこへ貯蔵するという話までありました。幸い石油ショックは終わり,この話は立ち消えになったということです。

田端: わたしたちの提案はかなり思いつき的ですが,これしかないのじゃないかと思っていました。只木さんの最初の話で議論少ししにくくなって,どうしたものか悩んでいますが,どなたかご意見ありませんか。   

村山(お米の勉強会): いい話を聞いたと思います。友人に里山の木を伐ってエネルギーにするという話があるのでこの研究会に行かないかと誘ったら,「えっ,燃やしちゃうの」といわれた。今の炭にしてというのはわかりやすくていい話だと思うんです。震災で被害にあって家を建てました。なるべくなら環境に負荷をかけない建て方をしたかったが,外壁を板にできなかった。今日聞いた燃えない炭にすれば,外壁にでも使えるのではないかなと思いました。舗装のコンクリートを燃えない炭を使えば水も吸収もできるしいいのではないか。林内放牧を里山管理方法に使えないか。町の人からお金を巻き上げるとか,山に連れ込んで里山管理をするという話がありましたが,半分詐欺のような話だなあ,都会の人はそんなにお金持ってないなあ,と思いながら聞いていましたが,もし林内放牧の健康な牛の肉を買うということにすれば,都市住民が里山管理に自然な協力ができるのではないかと思いました。そういったことも考えてほしい。

田端: 今の話は時間があれば,戻りたいと思います。小島さんどうぞ。

小島: 只木先生の話で少し出鼻をくじかれたような感じなのですが,CO2の固定とストックという点に関しては,使わずに置いておくといいというのはわかるのですが,今僕たちが問題にしているのはCO2の排出を何とかしたいということである。今の発電システムを変えることによって,これ以上CO2を出さないでエネルギー供給ができるのではないかということです。材として山を利用する場合に,搬出の制約と搬出の費用,広葉樹材を問題にしているわけですから,その全量を利用する方法があるのかどうか,林業が衰退している原因は山の利用がないということだから,炭化して置いておくというのは絵に描いた餅になってしまわないか。炭化して貯蔵するのも永久的に置いておくのではないようですが,いつか使うわけですからいつかはその炭素を放出することになる。国家事業でそんなことができるのだろうかと,かなり疑問に思いました。広葉樹林をいかに利用するかというところから,木材を使った熱電併給システムを提案しているのに対して,国家事業による炭の備蓄の提案では話が違うのではないか

次は私の話の中でふれた材の搬出に関してです。長江さんのお話は,高性能林業機械を使った搬出という観点からのご意見だったと思います。私は高性能林業機械を使うことは考えていないのです。高性能林業機械は用材生産のためのものだと思うのです。日本林業は用材生産を目的とすべきだとおっしゃいましたが,里山林の利用あるいは広葉樹の利用は,用材生産を目的とできないところに問題があります。従って,広葉樹材の搬出法も違ったものになるのではないかということです。つまり,搬出は1cmとか10cm とかに切ったものでもチップの形でもいいのです。ですから簡単な建設機械と統計に乗らないような作業道をたくさん用いることによって搬出費用は半額になることもあるだろうということを申し上げました。燃料としての利用というところで問題にしていることは,広葉樹萌芽林施業,生長量の把握,搬出方法,それと関連してコストということですから,建築廃材や製材廃材の利用,間伐材,枯れ松の利用も考えられる。

只木: 私は,広葉樹を使うのは理想的だが里山では無理だろうと申し上げたわけです。日本でも広葉樹材をたくさん使ってきましたが,里山の広葉樹は対象にならなかった。天然材の太いもの,いいものを選んで持ってきたからこそ広葉樹の利用というのがあったわけで,広葉樹の造林も昔からあり,とくに明治の終わりから大正のはじめにかけてブームがあった。その一部が今も残っていますが,これを見てもこれでは植えるのは楽しくないなというのが多い。現在のところ,日本での広葉樹の利用は天然林の中からいいのを持ってくる,いうなれば元手はかかっていない。搬出費は別ですよ。このようにして材として人気のある広葉樹の利用は生き延びているわけです。500万ヘクタールか600万ヘクタールある里山の広葉樹を木材として使うのは無理だということを私は申し上げたのです。無理なら,それをどう使うかというので,燃やすか炭にするかという選択肢が出てきているわけです。燃やすについては私は抵抗がある。国営工場はともかくとしてですよ,炭にして置いておけば,いずれ燃やして元に戻るが,生材をすぐ燃やすよりも何十年かのタイムラグがあります。これが私の主張です。

もう一つ申し上げますが,せっかくの議論に水をかけているわけでないのです。そういう考え方があって当然なんですね。ただし,全国の里山エネルギーで発電するということになれば,話は別なんです。ぜったいそういうことにならないと思いますが,ローカルにこういうふうなことが行われるということに対しては私はそんなに反対ではない。これは非常におもしろいやり方だと思います。

田端: 強調しておられる炭素のストックする根拠は何ですか。

只木: それは,世界の森林がCO2を取り込んで,生きた森林の体として7000億トン位の炭素を持っています。土の中に有機炭素のような形でも入っている。これは林によって違っていて熱帯林では少なく,亜寒帯林は多いのですが,乱暴な平均をすると生きた木にあるのと同じくらいある。つまり倍あるんですね。この炭素量1 兆4000億トンくらいになる。現在大気の中にCO2として存在する炭素量が7200億トンといわれていますから,森林はこの倍も持っているわけです。それだけ森林がストックしている。別の計算をすると,今採掘可能な化石燃料のなかの炭素量の1/7くらいにあたる。そのくらいの炭素量を持っているのですが,それをとりつぶして燃やせばそのままCO2ですが,そのまま放っておいても腐朽しますから,またCO2です。いずれは大気の中に戻っていくことになります。しかし,生きたままの森林,あるいはそれを伐ってまた木材などとして使えば大気の中に出ていく時間差が稼げる。その間がストックです。これが大きな意味を持っているのではないかと思うわけです。法隆寺は1400年の間炭素をため込んだままなのですね。つまりその分だけ大気中のCO2の量をセーブしているわけです。そこに森林や木材の本当の意味があるのではないかと考えています。森林がどれだけ炭素を吸収するかという話,もちろんそれが基礎になるのですが。それよりも蓄えて大気中に出ていかないようにそこにストックしておくというところに大きな意味がある。ついでに申し上げますと,日本の森林は毎年蓄積量を増やしているのですね。林業白書によれば,年間に7000万立方ずつ増えている。われわれの学生時代には日本の森林蓄積は20億立方メートルと習いました。それから35〜49 年たって,日本の森林は生長してきたのですね。また今伐り控えされていますから,よけい蓄積されている。現在のところ7000万立方増えている。これを炭素換算してみた。すると,実は毎年貯め込んでいる炭素量は,約3億トンといわれている毎年日本で排出している炭素量の4%くらいになる。今排出するばかりでその処理に困っているCO2の4%を黙っていても森林は貯め込んでくれている。わずか4%かという人もいるかもしれませんが,わたしはこの4%は大きな値だと思っています。また翌年4%蓄えられる。それがストックというものです。そこに価値を認めたいということです。

田端: その場合,年間生長量を毎年伐って燃やすとすれば,全く大気に対する負荷はゼロと考えていいですね。もう一つ私たちが考えなくてはいけないのは,化石燃料を燃やすことによって大気中のCO2を増やし,どんどん環境負荷を与えているわけで,そこのところを考えなくてはいけない。原子力や化石燃料に依存している私たちの生活を少し変えようというときに,木質燃料を見直そうというわけです。バイオマスコジェネと「燃えない炭」の生産で林業を甦らせ,里山を甦らせようというのが私たちの提案です。もちろん,木質系熱電併給システムの適切な規模の問題がある。どのくらい伐採して,搬出して,燃やして,熱と電気を供給する場合に,どのくらいの里山林を毎年伐って維持していけるか,などを明らかにして行かなくてなりません。年間成長量だけ伐ってコジェネをするとして,どのくらいの面積の里山林でどのくらいの規模のエネルギーシステムを動かせるのかを計算しなければなりませんが,原発や火力発電を当然のことのように受け入れている考え方を,林業を甦らせることによって変えようというのが私たちの提案なのです。そこを評価していただきたい。もちろんストックは生態学的に重要ですが,炭の備蓄というので炭を焼いて里山管理に生かせるかというところは疑問がある。今結論を出す必要はない。今後の議論の過程で只木さんの考えとのすりあわせをしていくのがいいのではないか。誰がなんといおうと,林業白書が何といおうと,日本の植栽林は惨憺たる状況にある。これをどうするのか。里山林を考えると同時に,里山管理と植栽地の管理をどうリンクさせるかが問題である。現在の林業をどう考えるかといった点に関して他の方からご意見を伺いたい。

氏原(高槻市森林組合): 里山研究会は始めて5年ほどになりますが,その到達したところが炭と木質発電なのですね。只木先生の議論もわからないではありませんが,昨日も田端先生があと10年は待てないのだということをいわれましたが,林業の立場からいえばその通りで,現在の日本の林業は10年待てるかといわれれば待てない。林業技術者が高齢化していて,田端先生がいわれるように炭焼きの技術が10年もすれば途絶えてしまう。国有林にしても3兆円の借金をどうしようかというので国有林解体まで議論がされている中で,これは国民の森林の問題です。ですからもっと議論しなくてはならない問題ですが,里山林の問題も,私たちが子供の頃にいたカブトムシやクワガタが山に入ってもとれないんですね。その理由は,昔は炭焼きをしながら木に傷を付けていたが,今は炭焼きをしなくなったので傷が付かないからです。CO2の問題も大事でしょうが,林業の立場からすれば,いま藁にでもすがりたい気持なのです。今,何かしないと林業技術も絶える,山村に人もいなくなる。せっぱ詰まっている。僕らがこの研究会にきているのはせっぱ詰まっているからなのです。只木先生は炭にして備蓄して置いたらいいではないかということですが,ものすごい財政赤字をかかえた国がどれだけ林業に金が使えるかといえば,問題がある。現実に来年から造林などは公共事業からはずすという議論が行われている。今林業をどう守るかというところにきている。その中で何か攻めていける提案として木質発電があるのに,只木先生がそれを箸を折るような議論をされたのは,我々の立場からすれば困るので,反論だけしておきます。

只木: 繰り返し申し上げますが,私は水を差しているつもりはまったくないのです。里山問題に私が最初にタッチしたのが昭和45年位でした。その時から林野庁は里山が大変になるよというので,いろんな委員会ができいろんな報告書が実は出ているのです。その後20年間何もなされなかったから問題なのです。努力はなさっているのだけれど,日本全体として盛り上がらなかったということだと思うのです。だから今のお説の通り,緊急ということもよくわかっておりますし,当面の問題として発電の問題が出てきたというのもわかります。小さな地域で試みて行かれることは,非常に有意義だと思います。生長量以下でやれば,CO2プラスマイナスゼロであって他に影響がない。私はそれはそれで結構だと思います。ただ心配なのは,それが正常に動きだして,それの原料に困ったときにどうするのかなと思うのです。これが困る。よその地域から持ってくるとか,過剰伐採にしてしまうとかが困る。このことは過去に形を変えてありました。林野庁が椎茸の栽培を推奨した。ところが地域よっては原木のクヌギの木がなくなりまして,県を越えて持ってくるとか,地域を越えて持ってくるとかが起きました。発電になると毎日の生活がかかっていますから,これが心配だなと思います。またイランことをいってしまいましたな。

それから,炭の問題は今全国的にやれと提唱しているわけではございませんので,誤解のないようにお願いします。当時そういった計算があったということを申し上げたわけです。私も里山の問題は心配しておりますので,悪者ではないということです(笑)。ただ考えて置いてほしいのは,今は燃料材としての利用は全伐採量の0.4か0.5%位であるということです。北尾さんそれくらいですな。我々はそういった観点からものを見てしまうのです。世界的に見ればいまだに55%が燃料材です。国によってはひどいところもあって,例えば年間伐採量の90%が燃料材です。インドネシアやフィリピンにしても7割とか8割は燃料材です。そういう国々もあって,そういう国々では毎日の燃料のために森林をつぶしているのだという背景もあるということを承知の上で,生材を燃やしてください。

小島(島根大): イランことをとおっしゃいましたが,生長量に関してですが,さきほど年間生長量分を固定すればという話の中で使われた年間生長量をどこから求められたかですが,たぶんその統計というのは森林簿を合計されたものでその蓄積量は正しいのかどうか問題があると思います。その統計に従えば日本の森林はむちゃくちゃになると思います。しかし,現在ある森林のうちエネルギー林として利用できる部分のしっかりした生長量がわかれば,その年間生長量で供給できる範囲で発電を行う限り,日本の森林は荒廃することはないと思うのでその点一言いわせていただきます。

只木: 年間生長量以下に押さえるというのは,林業の鉄則です。いまさらいわれるまでもないことで,そんなことは400年前の大先輩がいい出した保続ということであなたもご承知だと思いますが。ブラジルサミット以来持続的利用という言葉がはやっておりますが,簡単にいえば生長量以上は伐らないということで,そんなこと前提に議論するべきこと,当たり前だと思います。

田端: ただ,里山に関していろいろ報告書が出ていて,只木さんもそのメンバーであって,なぜ里山が昭和45年から今まで放って置かれたのかが問題だと思います。なぜ私のような林学以外のものが里山問題をやり,なぜ林学をやっている人たちがやらないのか。しかし,今いうても始まらない。ただここで一言いわせていただきたいのですが,私たち里山研究会を始めていろんな林学教室にも知らせを出しますが,林学者はほとんど反応してくれないなかで,只木さん(前名古屋大,現在プレック研究所)と北尾さん(島根大)は遠いところから参加して林学者の立場から発言していただいているわけで,私たちはたいへん感謝しています。私たちの貴重な仲間です。

問題は里山が今危機的な状態にあります。私たちの提案は昨日も冒頭に申し上げましたが,これまで里山を科学的に,生物学的にあつかった人はごく少数の研究者をのぞくとほとんどいなかったのです。私たちの先輩は,里山のように人手の加わった自然は自然科学の対象にはならないといってきましたが,私たちは里山について発言するためにはその生物学的な性質を知らなければならないということで,里山研究会を始めて足かけ5年,実際研究したのは3年ちょっとです。3年で里山問題について発言するのは気恥ずかしいのですが,私たちはもう待てないと思っているのですね。つまり,3年の蓄積ですから来年はいうことが違っているかもしれないが,現段階でいえることはいわなければならない。いわないと日本の自然はもう守れないと思っているわけです。そういう意味で,林学者にはいいたいことたくさんあるがそれはいわないで,今私たちは里山問題をどういうふうに考えるべきなのかについて議論していきたい。私は生物学の立場から,日本の自然を守るとはどういうことかといえば,それは里山を保全することだと考えているわけです。しかし,その手法は多くの人は抵抗があるかもしれないが,林をばっさり伐らなければならない。伝統的な炭焼きの技術体系を,里山の管理という観点から大切にしたい。では,どういう目的で里山を伐っていくかということです。

現在日本にある約5300種の高等植物のうち,低く見積もっても5種に1種は絶滅危急種か絶滅危惧種なのです。しかもその多くは里山の植物なのです。こんなに多くの植物が絶滅すると何が起きるのか正確に予測することはできないが,植物が1種いなくなれば,それに依存している動物が住めなくなる。これが訪花昆虫ですと,この昆虫によって送扮される植物が,多年生の植物ですとすぐにはわからないが何年か後の絶滅予備軍になる。脅しでなく,これは深刻な状況だと思っているわけです。その点もふまえながら,私たちの提案は非常に未熟なのですが,かなりせっぱ詰まった提案であるということです。村田さんこの点に関して何かありませんか。

村田(元京大,花明山植物園): 先に質問があるのですが,発電や炭焼きに限った発言しか許されないのでしょうか。(田端: いいえ。)それで安心しました。今まで議論の中で明確になっていない問題に,生物多様性の問題があります。今,田端さんがちょっとおっしゃいましたが,どんどん絶滅していっているのは氷山の一角なのです。ただもう少し問題を絞って発言しますと,地域特性を生かし,個性を尊重するとあちこちでいわれていますが,難しい問題を含んでいます。里山といっても一律にくくれない。京都近郊だけを取り上げても,ここではこういうことはやってもいいが,あそこではこういうことはやってはいけない,ということがあるだろう。議論していく過程で画一化,単純化する中で特殊性の問題が抜けてはいけないと思います。最近問題になっている絶滅の問題も,決して非常に珍しい貴重種が絶滅しているわけではなく,一番我々の生活圏にふんだんにあったものがどんどんなくなってきているということです。私なりに,どうしてそうなったのかということを考えてみたのですが,日本は北半球の文明国の中でも一番環境に恵まれている。今まで,植物はみなその植物にとって一番環境のいいところすんでいるというように考えられてきたように思います。ところが,今日のように環境問題がやかましくなる中で今まで見えなかったものが見えてきた。いいところにがんばってのうのうとした生活を送っているのは優占種になるようなわずかな種で,大部分は,すみたくないのだけれど強いやつがこないので安全だというようなところにすんでいるのではないかと,この頃思うようになってきた。環境がいいので日本では放っておくと森林になる。そこでその木をどう利用するかというのが議論されているのですが,手入れされる中で安全に保たれてきたものが,手入れされなくなることによって保たれなくなってきたという例がたくさんある。そこで里山問題を考えるときに地域特性をふまえた議論をするのも一案ではないかと思い発言させていただきました。

田端: 私たちは京阪奈丘陵にある100ヘクタールほどのところを調査しているのですが,それが広がりとつながりを持ってきて,朝鮮や内蒙古や中国東北部とのつながりも出てきましたし,多くの絶滅危急種といわれているものも,里山にずいぶんたくさんいるということもわかってきました。そうして植物種や植物群集についての認識を深めてきたのです。ところで,昨日からいおういおうと思いながらいっていないことがあるのですが,今回は林に議論を絞っているのですが,私たちは里山林に接している田んぼやため池や用水路や畦などについても,里山林と田んぼの間とか(里草地という言葉もある)が植物のすみ場所として重要であるということがわかってきました。ただし,今回は里山林の問題にしぼっていこうというわけです。ただ,里山林を早く何とかしないといけないと思っているものですから,多少せっかちになっているので,村田さんの指摘もありますように少し乱暴な議論していますが,とくに私たちの調査地では農業環境と絶滅の問題が密接に関係しているので,この問題はもう一度とりあげたいと思います。村田さんのご指摘は大事な点だと思います。

発電問題でもう少し議論したいのですが,どなたかご意見ありませんか。

岡田(宮津地域森林組合): 私は今日のテーマの「誰がどのようにして里山を守るか」というのですが,いろんな地域でいろんな人ががんばっていますが,森林組合しか里山は守れないと思います。また森林組合がやらなければならない仕事だと思っています。では里山林をどう管理していくのか。一つは。林種転換して造林する。里山をいい形で残すためには,林野庁が広葉樹の保全林事業にたいする補助金制度を創立するのが必要である。炭焼きなどは役に立たない。木材の廃材を利用しての発電ですが,今チップ工場が採算が合わないのに,そういった状況の中で発電をしているというのですが,発電のために材を購入しているというのですから,これではチップ工場と同じになる思う。発電では里山の健全な管理に結びつかない。里山管理には林野庁の積極的な対策がまず大事である。それには里山管理できる林業労働者を養成することが必要である。

田端: 岡田さんと意見が違ってくるなあと思いました。里山をどう残すのかはまだはっきりしていないが,林野庁の補助金をどうするかということでなく,里山を残すのに林野庁のお金に頼るというのは必ずしも必要ないのではないか。問題は里山をどうして守っていくかという仕組みを根本的に考えることだと思います。林業の発展に補助金がどのような役割を持っているのかを考える必要がある。今日の長江さんのお話は林野庁の立場をよく説明しておられたと思いますが,それでどうなのかというところがよく理解できない,実際,補助金が林業でどう使われて,どういう役割を持ってきたのか,それで日本の林業はどうなっているのか,について,北尾さん少し整理して話していただけないでしょうか。

北尾(島根大): 先ほどの林野庁の長江さんのお話は理路整然としていて,身内と考えれば実に頼もしいと思います。さて,私の話には前提となる説明がいると思います。森林の公益的機能とくくれるものと,木材というものを違った形でとらえておられますね。木材というのは市場メカニズムで社会的評価を受ける,そういうことであるコスト計算もある種のフィクションもはいる場合もありますが,市場に合わせてやっていけるというところがあるわけです。今,大事なのは公益的機能だということになれば,林野庁の補助金体系がそれにあっているかといえば,そうはなっていない。産業政策の中でひとつ入れ込んで補助金体系があるという形である。そうではなくて次に時代を切り開くというものがあればそれをお示しいただければ,われわれ声援を送りたい。しかし,ちょっと違うという感じがします。もう一つ補助金と絡めていいますと,さきほどもぽろっと出てきましたが,補助金には損益分岐点があるという話です。元々やりたいという主体があってそれをサポートするのが補助金です。農業とか,通産行政には主体があるが,林業経営には何が主体かという大問題がある。だから,自己実現,自己責任,これは典型的には先ほどいいましたように,市場メカニズムに合わせて自分で自分を実現させていくというような形の補助金ならよくわかるのですが,そういう経営主体を前提にした補助金政策と地域振興政策がごっちゃになっている。昨日ははっきり申し上げられませんでしたが,私の関係している島根県でも,これは他の都道府県でも同じですが,林業公社がたいへんピンチに陥っています。金利を伴うお金を借り入れて運用したということです。もちろん,ここには分収育林システムの問題もあります。島根県では2万3千ヘクタールほど植えたことによる累積赤字なのですが,つまり伐採したときに元利合計を返すということなのですが,とてもでないが及びもつかぬという現実が見えてきました。他方では,伐採跡地だとか,今問題になっている里山管理であるとか,公的な形で森林整備をすることが必要で,ある意味では森林整備公社の出番であるといった状況もあります。それがうまく結びつけられない。結局,地域振興策がからんでいるからということです。森林組合の仕事というのが,そういう公団公社の仕事を支えるという形で,それを前提にして,森林労働者も組織されているということがあります。だからこれをすぐに切るわけにはいかないという事情があります。いろいろなほかの整備も必要なのですが,目に見える形である仕事量を確保するということになると,どうしても拡大造林ということになるのです。そう事情が片一方にあります。結局,公益的機能で森林を見ると,森林は当然のことですが公共財です。ところがそれを木材業から補助していくのは少し違いますが,林業経営ないしは森林経営に補助していくというときには,これは私的所有者を前提にして補助していくという体系なのです。さきほどからの議論を整理しておかないと訳が分からなくなる。森林組合が里山管理の担い手ですよ,などといわれる。経済学史学会などで「担い手」というときには,それは経営の担い手のことです。ところが林野行政の分野などでは技術を持っている緑の担い手などというようにスライドさせていく。それを組織しているのは森林組合であるというのは事実であるが,経営としてどのようにして資金を調達するかが問題である。市場メカニズムならある程度実力でやっていける訳ですが,その結果ある程度環境が維持されてきたということがあります。今それが崩壊したとき,それを担っていくのはある意味で公的資金にならざるをえない。あるいは吉津さんのように市場メカニズムで行くんだということもわかる。しかし,公的資金を導入するなら今までとは違った補助金システムがいる。これはいまはやりの言葉でいえば,accountability 説明責任というのがいるわけです。こういう施業をするとこういうように水源涵養になる,何もしないよりもこのようにプラスになるといったことを,流域なら流域,地域なら地域で説明をして公的資金を持ってこないとおかしくなる。このときの主人公はお金を払う側です。拡大造林でも7割が補助金ということになっているわけですが,これは国庫の金を使っているのだけれど説明がわかりにくい。すでに公的資金を使って公益的な整備をしているじゃないかという理解の仕方もありうる。元々公共事業ですから。それを産業政策の中でやっていて,結局赤字のツケがまわってくる。森林公社の財務保証を全部県がやっていますから。ないしは市町村に全部かぶっていきます。ニッチモサッチモならない状態ですから,制度資金をひきだして投入する時期ではないかと思われます。しかし片一方では,そういう労働組織を地域としてちゃんとしていく必要があるから,原資はやはり公的資金ということになる。ここでどういう形であわせていくかということになる。緑の担い手,労働力の担い手というが,これはそうではなくて経営をどうするかということです。例えば,里山管理なんかは以前は経営主体として村というのがあった。管理を村の責任でやっていた。そういう実体をどこに求めていくかを議論しなくてはならない。森林公社も森林組合もそうですが,今までとは違った道を歩むんだということを明確にして,公的資金を入れるなら入れることにする。キャッチボールする必要がある。説明責任です。そういう中で,森とか里山の管理が必要になってくるんだと思います。

ついでですが,先ほどの只木さんとの議論はどうでもいいことに時間を費やした感があります。只木さんのおっしゃっているのは炭素のストックをなるべく増やすのは意味があるからできることならそうせよと理解すればいいことである。ただ,われわれの主張は,里山管理と結びつけながら,地下資源依存型のエネルギーの使い方とはちがったサイクルを作るということでたいへん意味がある。しかも,緊急事態であるということです。そういう中で里山とリンクさせながら,地方分散型の社会を作っていくということでやっているわけです。只木さんがいわれるのは,加えてストックを増やしましょうということである。床下に炭を敷き詰めることによって快適な空間もできるし,シロアリ対策も必要ない。これもストックを増やすことになるわけですし,県によっては「木使い運動」というのをやっているところもある。なるべく木を使いましょうという運動である。これもストックを増やすことになる。只木さんのご指摘も当然だけれど,うまく組み入れればすむことだなと思います。

あと1点だけ。里山研究会は1つのステージを迎えているということです。私は他の人達と大学で概論をやっている。レポートを書かせるとわかるのですが,中学高校の環境教育で森林について3つ大事なことを教えている。それを否定するのが一苦労なのです。「森を伐るな」「森林は酸素を出している」「熱帯林を切ると砂漠になる」と教えている。こういう中で自然保護とはいかにあるべきなのかを明らかにしていく必要がある。里山研究会の主張は違うわけです。これは付け足しです。

最後にもう一つ(笑)。昨日,吉津さんと飲みながら喧嘩になりそうになった。吉津さんは「wants」に依拠してやっておられる。ニーズがあるから補助金ももらわずに自己責任でやっていく,というのでやっておられる。それはそれで非常にすっきりしている。片一方で環境というのが今後いろんなところで社会的規範になってくるでしょうが,環境は経済メカニズムとは違うところで設定せざるを得ない。これをうまく融合させてとらえている理論にお目にかかったことがない。環境ということになると社会的な規制とかをやらざるを得ない。公的な資金を投入せざるを得ない。むしろそれの方が大事だというのがある。吉津さんに洗脳されたらたまらんなというのがあって議論になりました。酒も飲んでいて余分なことをいいましたので,このことを少し弁解させていただきました。

田端: ここでティーブレイクにしましょう。私は司会がへたくそです。

ただ,ティーブレイクの前に少しいわせてください。只木さんに何といわれようと,只木さんにも同志になっていただいて(笑),木質系発電を実現する協議会のようなものをこのワークショップの後でつくろうではないかというように考えていました。私たちは「里山の自然」の中で感性的な提案をしましたが,そこで高槻市森林組合の森林観光センターを例にあげて,ここで小規模なコジェネのエネルギーシステムを導入したらどうなるのかを小池さんに試算をしてもらいました。観光センターでは,鉱泉を重油ボイラーで温めている,電気も消費している。それをコジェネでまかなおうというわけです。そのシステムを維持するのに林をどのくらい伐採すればいいのかということです。

エネルギー統計によれば,熱として使う割合が多くて,照明や機械的エネルギーとして使っているのは約1/3である。コジェネを使えば電気は現在の電力消費量の1/3を提供すればよいことになる。そこで,どんなところに,どのようなサイズのシステムを作れば,どれだけの伐採で私たちが考えている里山管理になるのかを試算して提案したい。小島さんの吉田村でのケーススタディはその一つであるわけです。これをもっとリアルなものにしたい。そうして一つでいいから私たちのイニシアティブで里山管理を行うためのエネルギープラントをパイロットプラントとしてつくりたい。只木さんに何をいわれようと只木さんを味方に付けてそのための協議会をつくりたい。そのために何を議論したらいいのかを,ティーブレイクの間にお考えいただいて,ティーブレイクの後討論を再会したい。


<ティーブレイク>


田端: まず吉津さんお願いします。

吉津(たもかく): 補助金に頼らないでやるということが先程来話題になっていて心苦しかったので弁解させていただきます。自分たちの木で家具をつくるというので,50%の補助で250万円ほど補助金をもらっている。今年つくったものの販売事業というので150万円位もらっています。補助金に関していえば,私は制度としてはいい。やりたいこといいたいことに補助してくれるならいいことだと思っています。木材加工組合「たもかく」の他に,会津地域流域林業活性化センターに関わっている。なぜ関わっているかといえば,流域林業構造改善事業というのがあり,林野庁は流域ごとに施業計画をくんでそこで流域の林業計画に組み込む形で林業構造改善事業をやると20〜30億円くらいの補助が出て集成材の工場などをつくっている。時には50億円出ます。もしかして,里山研究会が流域林業活性化センターと組んでやれば,里山の燃料をつかって発電しようというのも,流域林業構造改善事業として補助が出るかもしれない。

長江さんから補助金の説明を受けてその通りなのですが,中央官庁がまともになってきても,県などの地方自治体レベルではまるで問題がわかっていない。

都会の人のお金を取り込んで里山を守るというのは半分詐欺みたいだという先ほどのご指摘についても弁解させください。私の会社がうまくいかなくなったら半分だけでなく全部詐欺になってしまいます。そうならないように,あるいは,できるだけそうなるのを先に延ばしたいと努力しています。

田端: ドングリ銀行の提案者である香川県の松下さんのご意見を伺いたいと思います。

松下(香川県): たっぷり討論するということだったが,第2部第3部の問題の討論をしてほしかった。只木先生の話もよくわかるが,いまさらそこまで戻らなくてもいいのではないかと思います。ここでは「たもかく」がなぜ広がらないのかとか,発電の問題も環境財とか公共財とかいわれていますが,里山が何らかの形で公的におさえられるなら,林業やろうが,やろまいがかまわない。これ以上お金をかけるのは難しいので,公が乗り出さなくても,もし発電で里山が自主的に保全されるのなら結構なことだ。発電が今の経済システムで成り立つのかということをぜひ討論してほしい。ぜひ議論に移ってほしい。

田端: 率直にいって小島君のケーススタディしかない。これをもっとリアルにしていかないといけない。そのために何を考えなくてはならないかを議論したいと思っていました。こういう形で里山管理をするには,括弧つきの「入会」というのが認められなければできない。この問題は里山研究会の最初からの課題である。個々の所有者ではどうしようもなくなって管理放棄された個人の所有林が,実は公益的機能を持っている。公共財とかコモンズとかいわれているわけです。そこで所有権は認めながら,それを越えて「入会」的なものを認めないと,この個人所有の林の管理ができない。今こういった問題を考えるのに有利な条件がある。里山の所有者は自分の山が竹やぶになってしまっても文句もいわないという状況がある。個人の所有権をこえてものを考えることができる社会的背景がある。もう一つは発電をやる場合に,伐採して搬出して発電して,純然たるコスト計算が成り立つかという問題がある。私はだめではないかと思うのですが,小島君は可能だといっていました。私は里山という自然に手を加えなくてはならないというのは社会的な要請,社会的な前提であって,発電のためにではなく自然を維持するために手を加えるのだから,そのコストを発電のコストに加えなくてもいいのではないかと思っています。ここを議論していただきたい。

小島: コストの問題は重要な問題ですが,私はこの問題を明確にできていない。理由の一つが,熱をどう利用するかがはっきりしていない。つまり,熱利用からどういう利益が得られるかがわかっていないからです。電力会社による電気の買い取り価格が安く押さえられている点も問題である。コストの1/5程度でしか買い取ってもらえないという制度が大きな問題です。

田端: 小島君が昨日提案していたのはエコマークですよね。

小島: 電気でもエコマークがあります。もう一つ大事なのは,スウェーデンでは送配電の分離が確立されているのです。田端電力というのがあって,関西電力の電気もある。少し高くてもクリーンなエネルギーだというので,田端電力の電気を家庭で選ぶことができる。このように完全に送配電の分離ができれば,何とかなると思う。

野間(京大): コストが問題になっているが,吉田村での試算で,吉田村の電力は二次林でまかなえるのか。発電に必要な材の伐採,搬出,などに何人の人が必要なのか。

小島: 搬送,貯木のコストはわかると思う。

野間: 8760トンの薪をつくるのに,何人の人手で何日かかるのか。阿蘇グリーンストックでスギやヒノキの人工林を取得してボランティアで間伐を始めた。しかしなかなかうまく行かないということを聞きました。ですから,だいたいどのくらいでやれるのかというのを聞きたいと思っていました。

氏原: 8760トンはほぼ8760m3と同じで,価格はトンあたり5000〜6000円ですから4380万円から5256万円になる。その80%が経費なので3504万円から4204.6万円になる。日当15000円で割れば必要な人数が出てくる。つまり2336人から2803人になる。

村田: 発電するまではいい。どれをどうして配電するのか。日本はスギという木がふんだんにあったために,「スギの公害」といっていいくらい電柱による配電が行われた。電力会社はこぞって山をかって電柱生産を行っている。

田端: 燃料の供給は自動でやる。小島君のいっているガス化する場合は,ボイラーの管理責任者がいらない。ガス化する様式で100kWhの発電をしている製材工場がが三重県の美杉村にある。問題は伐採して発電のサイトまで持ってくるところにある。このコストを発電のコストにいれなくてはならないのかどうか。住環境のためにも,自然の保全のためにも,里山や手入れを放棄した植栽林の管理が必要だというなら,里山の管理に関するところは公共財,社会資本の整備として行うべきである。そうすれば,ここに関わるコストは発電のコストに入れなくてもよいことになる。ですから,里山や植栽林の管理を公共の事業として行うことに関する国民的合意がどれだけ形成できるかにかかってくると思う。どれだけ共通の認識になりうるかによると思う。

この点に関してどなたかご意見ありませんか。都筑さんどうぞ。エコテックの都筑さんは,実際の仕事はソーラーパネルの普及をやられているのですが,ローカルな分散型のエネルギー利用の研究を行っておられる方です。

都筑: 元々はソフトエネルギーの普及をやろうというので,レクスタ(自然エネルギー事業協同組合)をつくっているのもそのためです。伊井野さんから誘われてやってきたのですが,里山研究会がエネルギー問題をこれほど熱心にやられるとは考えていなかった。まず感想を述べたいのですが,コスト計算を先にやるというのは市場経済の枠のなかで考えていらっしゃる皆さんの呪詛というか,マインドコントールされたなかでやっていらっしゃるなということです。ソーラーパネルを設置するときに,採算がとれますかという質問を受ける。とれませんと答える。どうしても採算を合わせたければ,おやめなさいといいます。ソフトエネルギーに関して採算のことを考えるならば,大型の風力発電を懸命にやりましょうということになる。日本の売買電の制度のなかで,山形県のタチカワ町が風力発電を町おこしの事業として考えて実施段階にあります。しかし,ここでもネックになっているのが売買電の問題です。売買電の料金の体系の問題です。低圧の場合には16円で買って貰えばなりたつ。北尾さんが現状では料金体系について定式化されたものはないといわれたが,実際には緑の料金green priceというのが定式化されようとしています。炭素税とかいう形で環境負荷を内部化する試みです。環境負荷を内部化して,料金に反映したりコストに反映したりということを同時並行的に行わないといけない。「課税をgoodsからbadsへ」とよくいわれます。今は所得等に対して税金がかかるのですが,これからは環境を破壊するもの,つまりbadsに課税する仕組みが研究されています。こういったことを同時に考えていかないといけないということが一つです。もう一つは,只木さんの話のなかで,木が足りなくなったら他から持ってくるようなことにならないかという話がありましたが,私たちはソフトエネルギーの普及をするときに,「町の環境や村のエネルギーをつくろうじゃないか」ということを合い言葉にしています。やはり村や町に主体となるエネルギー屋がいないと,どんなにいいソフトエネルギーの機械をつけても,それは今の市場経済のなかでは消費を拡大することになってしまう。一つの自立した経済圏のなかで,エネルギーの使い方や作り方を考えないと,結局コストとか効率だとかという議論に足をすくわれてしまうことになると考えています。

それとついでですが,福本(阪大)さんの表について補足したい。彼がいいたかったことは今ソフトエネルギーをやったりするより,コジェネをやった方がエネルギー問題を解決するのに一番がいいということを示そうとしてこの表を出しているのだと思う。1975年1986年1994年のエネルギーの消費供給のフローチャートで問題なのは,エネルギーの損失が75年には62.5%,1986年には65%,1994年には67%と,省エネの技術が発達していても,結局損失が大きくなっているのではないかということです。ここの損失を少なくすることがキーポイントである。とくに,民生や運輸の需要がふえているがそこをどう少なくするかが問題である。そこをコジェネでやれば損失のところが20%30%に押さえられる。コジェネでやれば利用しない廃熱は28%であり,コジェネを使わなければ熱が無駄になることを示す表である。ソフトエネルギーというのは,エネルギーが不安定でしかもエネルギー密度が少ない,お天気任せなのにどう利用するかに関わっているのであって,入り口があって出口があって,熱エネルギー的には,エントロピー的には最終的にはみんな同じになる。だから,快適な今の生活を維持するために里山の木を切って発電しようというのではない。里山にこれだけの木しかない,あるいはこれだけの間伐材しかないとき,それに合わせた生活をどうしようかを考えるのか。出発点が大事である。大規模集中型の今のエネルギー供給は効率がいいわけです。里山研究会で議論することはそういうことではないと思っています。

伊井野: 田端先生のいわれた材の搬出のことなどをからめて,エコテックの都筑さんや林さんとエコリゾートの関係を話したい。エコリゾートの資料の最後に「身の丈のエネルギープラントの製造販売」と書いてあるのは,吉田村の2670人の電気といっても結構大きい。近くに押入のサンを作っている木工場があって毎日毎日は廃材を燃やしている。それを何とかしたいと考えた。そこに木質ガスを用いた5kWhの発電装置を設置できないか。10kWhならふつうの生活を送れる。その人たちは山を持っている。木が足りなくなれば,その人たちは山からせっせと木を切って持ってくるのではないか。そういうところにそんな装置を売っていけないだろうかと考えているわけです。それを身の丈の技術といっている。エコリゾートはそういう技術を広げていきたいと考えている。200ヘクタールの林を守っていきたいというので頑張っている。身の丈の技術がエコリゾートの足にならないかなというわけです。

松下: 適正規模,小規模分散というのはたいへんいいと思うのですが,私なんかは県全体どうするかということを考える。里山を伐っていかないといけないというのなら,まわしていくというので考えて,今のシステムで成り立つのかどうかを知りたいというのでお聞きしていたのですが,やはり小規模分散という考え方があるけれど,大きな地域レベルで経済レベルに乗せて動けるのか,動かないのならどれだけ嵩上げする必要があるのかを知りたい。その嵩上げ部分が国民がよしとできる負担なのか。それが田端さんがいわれるところだと思う。それはコスト計算していかなければ出てこないと思う。だから,木材発電は規模をどこらへんにするかということが問題であるということが浮き彫りになったと思う。その辺で整理していただきたい。伊井野さんのいわれる小規模分散というのはたいへんいいと思いますが,それでこの広い里山をすべてやれるとは思わない。

田端: 少しいい加減ですが,県全体の里山を発電で何とかすることができるとは最初から思っていない。そこで,現段階では今私たちが考えなければならないのは,パイロットプラントだと思っています。県全体を発電で管理しようとしたら,山はたぶん丸坊主になってしまうだろうと思っています。里山管理の一つの手法としてどの程度の規模が適正なのかということを真剣に考えないといけない。いい加減な話ですが,山下さんは市町村の1/3くらいに設置するのがいいといっておられますが,それはスローガンです。今性急にそこの結論を出すのはできないと思っています。仲間でケーススタディをやっている小島君を支援する体制をまず作りたい。知恵を集めたい。里山研究会の今後の課題ですが,家内工業のような里山研究会が発電もやるというのは難しい。里山管理の手法としての木質発電の適正規模だとかその展開を本当に考える組織を作りたいと考えています。里山研究会はそれを側面から支援するというのがいいのではないかと思っています。ここのところは少し気長に見守っていただきたいと思います。

都筑さんからスポイルされているという話がありたいへん気にしている。伐採とか搬出などの費用を発電のコストに入れなければならないのか。私は入れる必要はないのではないかと思っている。つまり,里山を管理しなくてはならないのは大前提です。そういうふうに考えるのはいいのか悪いのかについて,どなたか教えていただける方いらっしゃいませんか。

長江(林野庁): あくまで個人の発言です。里山は人為を加えて維持されてきた自然である。炭焼きや緑肥採取などが行われてきた。人為が加わらなくなったときに植生が大きく変化し,多くの動植物が絶滅の危機に瀕しているということになっていると思います。人為をどうすれば加えていけるかということになる。当然,人為を加えるコストを誰が見るのかが問題になる。なぜ田端さんが発電のための燃料を集めてくる経費を見なくてもいいのではないかといわれるのかよくわからない。その部分を誰が見るのか。飯野さんやエコテックの方がいわれるように,夢を食うというのは馬鹿にした言い方でなく,確かに一部の地域,一部の人が,情熱を持って無償的にやられるところはあると思う。それでは数ヘクタール,数10ヘクタールが限界ではないか。2000kWhの発電を市町村単位でやっていくということになれば,一定の面積になる。それは個人のボランタリーではやっていけない。そこのコストを誰かが見なくてはならない。なぜ発電の話が出てきたかというと,人為を加えるに必要なコストを発電という形でまかなえないかというところがポイントだと思うのです。にもかかわらずそのコストを見なくてもいいというのでは発電のための発電になってしまっているのではないかと思います。絶対そこの経費は見るべきだと思います。付け加えさせていただければ,吉田村のケーススタディだと4000ヘクタールがいるわけです。午前中にもいいましたが,集材距離500メートルというのは林道なり作業道から500メートルは歩いていかなければならないということです。それでも20m/ha道がいるわけです。今,平均15メートルですから,あと5メートル道をつけてやらないと道から500メートル以内のところに立木がないわけです。しかし,メートルあたり10万円の道をつける必要はないわけです。高性能林業機械は1台あたり1000から4000万円します,そんなものを入れる必要はないでしょう。たとえば,小型の建築用のブルなりを入れればいいでしょう。それでも道として復員1.8メートル以上必ずいります。山を削るだけの道です。1メートルつくるのに1万円かかります。そうすると5メートルですから1ヘクタールで5万円かかります。4000ヘクタールだと2億円の作業道の開設経費がいるわけです。道から500メートル歩くという条件を作るだけでも2億円かかるわけです。チップにするだけでも道のところまでまるたをひっぱってこなければならんわけです。道から200メートルのところに立木があるという条件にするためには44m/haの道がいる。平均が15メートルですから,あと約30メートル道がいるわけです。30万円/ha ですから,4000ヘクタールだと12億円いる。そのコストを誰が見るのか。道はいるだろう。木馬や修羅で落とすわけには行かないだろう。ある程度は機械がいる。その経費が,ケーススタディをしていただいてそれが3000円でできるというならそれはそれで結構です。そこの経費まで見て初めて,それだけのコストが回収できるんで山に手を入れようというインセンティブが与えられると考えられる。田端先生,なぜその経費を見ないでいいのか,あるいは誰がその経費を見るのかということを含めてお話いただきたい。

吉津: 今の議論で,先ほどの森林組合の方の話とあわせて疑問だなと思うところがあるのです。広葉樹天然林改良にはヘクタールあたり20万円の補助が出ているという。そうすると20万円の補助をばっさいして発電所まで持ってくるのに20万円以内に収まっているなら,整合性がないわけでは泣くって,森林組合の作業だったら20万円の補助金が出ていて,片方,里山保全のために発電すると自力でやらなかったら経済的意味がないでしょうというのでは,整合性がないように思える。私は田端先生がいうように現在すでに森林組合が植林だ撫育だにたいして公益的機能なのか雇用の維持なのかそういう目的なのか知りませんが知らないが,補助が出ているわけです。その補助金を使って里山発電をする発想があってもいいのじゃないかと思う。田端さんのいうように全然問題ない。別に里山研究会の人が,切り出しをしたり事業したりするわけではありませんから,全国の1000町村でも300町村でもやるときは森林組合の作業班がやればいいことだから,天然林改良だとかそういうことでやっているノウハウだとかが使えるだろう。

今いわれていることで不思議だなと思ったのは,これから伐採搬出するのに吉田村全部ということになったら新しく道路を造らなければならいという議論があるかもしれないが,実際里山として利用せれてきたところでは,実際には青道,赤道,実質的な作業道が整備されていて,1万円もかけなくても実際に搬出用のブルが行けば搬出できる里山はいくらでもあると思う。そういうところで始めれば,今ある仕組みのなかで田端先生がいっていることをやる意味が十分あると思うがいかがなものか。

岡田: 里山の広葉樹保全のために,20万円/ha位の補助事業を林野庁が作ってほしいということをいった。今ないわけですから。そこを間違われると困る。それと先ほど長江さんがいわれた点についてですが,これは絶対にコスト計算に入れるべきだと思います。現実にお金がかかるわけです。例えば,今シイタケ栽培が廃れたのは,中国から安いシイタケが入ってくる問いこともありますが,採算が合わないわけです。原木1本作るのに高くつく。伊根町森林組合は50メートルの作業道をつけてある。至る所に道があっても,シイタケの原木1本あたり300円かかる。燃料用の原木供給ということになるとチップの場合と同じようになると思いますが,チップ原木で直径10cmで2メートルのものが40kg,25本で1tになるが,その生産費が6000円です。1本あたり原価240円になる。木質発電の燃料供給についても当然原価計算をするべきである。さもないと一歩も前に行かないだろうと思います。

田端: 雑ぱくな話をします。私たちは環境に対する考え方を変えようということを提案しているわけです。したがって,身近な環境は何かというとそれは里山だというわけです。その里山を今のように放置していたら荒廃し,住環境も劣悪なものになっていく。そこで今のような考え方で山を考えるのはやめようと主張しているわけです。コストがかかるのは当然だと思います。林を守るのに水道料金を少し高くしようとしたら反対されるとか,いろいろ問題はあるとおもいます。ですが,これからは考え方を変える必要がある。電気にしても,環境に対して負荷のない電気は高く買おう。化石燃料を使って環境に負荷をかけている発電を,今は発電のコストだけを考えているのですが,化石燃料を使って地球環境が劣悪になることもコストに繰り込んで考えてみようといっているわけです。そういった発電はできるだけ減らしたい。コストがかかるのはわかっているのですが,そのコストを発電のコストに入れなければならないのかどうかということをいっているわけです。つまり,里山を管理することは環境を維持して行くわけですから,そのことに対して私たちも応分の負担をしようではないか。考え方を変えようではないか。先ほど小島君が田端発電云々という話をしましたが,クリーンな電気は少し高くても買いたい。化石燃料を使ったり,何千年に亘って後世に負担をかけるような原発の電気は使いたくないと考えている。コスト計算というなら,環境負荷や後世における処理費といったコストを,今,発電コスト計算に入れているのか。そして木質発電をするとなると,すべてコストに入れろという。コスト計算の方法を変えよう。

増え続ける電力需要予測に基づいて日本は原発をまだ増やそうとしているわけですが,私たちはそれはやめてほしいといいたいわけです。北尾さんが安定社会という言葉を使って誤解を受けましたが,そういった社会が本当に望ましい社会なのかと北尾さんは問いかけたのだと思います。わたしたちの提案の根本にはこういった環境や社会についての考え方がある。価値観の転換を必要としている。

廃熱を利用することによってもエネルギー事情はずいぶん変わってくる。節電とか,省エネとか,私たちができるところで何ができるのかということともこのことと関係している。そのお金を誰が払うのかという議論はしないといけないと思います。これは私たちは応分の負担はしてもいいと考えていますし,補助金といおうと何といおうといいのですが,公的な資金を投入して,道路の穴があいたら直すように里山の管理をするべきではないか。そういった精神を私は主張したい。そこのところに関してご意見があればお願いします。

北尾: コストというのをお互い理解していないところがあるかもしれません。論議の建て方が2つある。手をかけなくてはならないとなれば,資金がいる。誰が負担するかというのにつながるんですが。2つある。環境維持のためのコストというのを明確に掲げると,所管官庁は環境庁が出てくるのか,林野行政で取り組んでいくのか。公共財といってもたいていは地方公共財です。すると自治庁所管でやるべきでないかという議論もある。分権化社会というのも自治庁が受け止めてマトリックス予算などということもいわれている。縦に流れてくるものを横に直すというのが地方分権だというふうにとらえていたりする。発電などは通産省も関わるから訳が分からなくなる可能性もある。もっと自治というなかでとらえて,コストを誰が負担するかという仕組みに変えないといけないという議論がある。具体的な話にするとこういった問題に行き着くという話です。もう1つは,コストをお金ということで換算するのか,お金ということになれば,いろいろ計算し直さなければならない。お金よりももっとものの循環に即してやろうではないかという考えもでてきます。森林資源勘定とか,自然とか環境を社会的にアカウントするプログラムが立ち上がる根拠がここにある。今,里山を管理してやっていくというのも目に見えた形になっていない。物質循環そのものが。今,安定社会などという話も少し出ましたが,成長を前提にしてずうっと行くわけですが,自然にインパクトを与えながら森林に関していえば,森林の消失と劣化を前提として人間の今の豊かさというのがあるわけです。これの環境とか自然資源との取引勘定が社会的にないのです。林野も入ってOECDレベルでそういうプロジェクトが立ち上がっていますが,小池さんが,もう少しものにこだわりながら人間と自然の取引勘定をやる国際シンポジウムをこの秋にやります。地域レベルでももっと見える形で,こういうものを投入すればこう変わるのだということを明らかにしないといけない。お金も大事でしょう。これならどれだけ負担するつもりがあるとか,いうのも引き込みながら,1つお金でというのをはかってみるのも必要ですが,もっとものの循環にこだわって,社会勘定として見えるかたちで道筋を整備していくことがだいじだろう。

田端: お金がかかるのはわかっている。しかしここのところ大事なことなのでもう少しご意見ありませんか。

松下: 時間がないので最後にいわせていただきたい。田端さんの話でコストの額にこだわらずにどう見るかということをいわれたのでわかったのですが,田端さんは結局運動論を展開している。他のグループは具体的な手法についてもう少し深めようというやり方ではなく,いかに連帯していくかというレベルで動いている。ところが,ここは,例えば「たもかく」の手法をいかに広めるかとか,木質発電をいかに考えるかといった形で,他でやっている運動論といった形と違って,里山研究会は具体的に取り組んでいると思って,そこに興味を持って出かけてきた。コストにこだわったのはそういう意味で,長江さんがいわれたように,当然環境の内部化をしていかないと,外部経済に持っていくとそこで青天井になって誰が判断するのかという問題がずっとひかえていますから,森林交付税のような話で宙に浮いた話になりますから,絶対内部化しないといけないと思います。その点では田端さんも同じだと思います。ただ,運動論にもっていってしまうと,この後議論は空回りすると思うので,先ほどのコスト的なことも含めて,先ほど伊井野さんがいわれた分散型のものから多少広域性を持ったものまで含めて,赤字になるのならどれだけ嵩上げしたらいいのかといったシビアな問題を含めて現実性を持たせていかないと,この木質発電は運動論で終われば毎回毎回やりましょうといって終わってしまうのではないかという印象を持っています。

室田(同志社大): 1992年度の実績で,木質系の発電は黒液,廃材などで重油換算すると448万klになる。統計では自然エネルギーといわれているが圧倒的に黒液発電である。木材が火力発電に使われているという事実を見ておく必要がある。その次はゴミ発電である。高度成長の過程でゴミに紙が多く入ってきて火力が大きくなってきて,発電機も取り付けようではないかというので脚光を浴びるようになってきている。それで,木材発電は,リグニン系は黒液発電,セルロースはゴミとして自治体レベルでゴミ発電ということになっている。木質発電というのは今の日本の経済のなかで現実にかなり大きなウェイトを占めている。そこで新しいことを始めようとするなら,既存のものとどう結合させて発展させていけばいいかを考えればいい。そういう手法があるのではないか。その中でコスト問題も見えてくると思う。なぜパルプ会社が木材発電をやっているのか。それは明らかに採算が合うからである。電力会社から電気を買えば高いわけです。パルプ会社では自家発電が70%位になっている。里山の問題にすぐには結びつかないが,現実に木材火力発電は日本で多く使われている。いずれにしても,いま日本で木材が発電に盛んに使われているというところから出発すれば,いろんなことがわかってきそうです。コストの問題も,ゴミは処理しなければいけないので,税金で集め,集ったごみで電力をつくればその分自治体にとって得になる。マツガレの松はゴミとして扱って電気が得られればいいのですが,従来は伐って農薬を散布していた。農薬散布にお金をかけるよりは,ゴミ発電をやっている自治体に持っていって電気にできる。ゴミ発電のコジェネも結構やられていて,札幌市の厚別工場の場合,発電は工場でやり,熱供給は何kmも離れた団地に行なっている事例もすでにある。すでにいろんな事例があるから,里山の保全のための木質発電というのでなくて,もっと現実からはいるのがいいと思う。

都筑: コストのことを先ほど話しましたが,ソフトエネルギーの普及をはかるときもコスト計算はして生きているわけです。今のままのコスト計算のし方ではまずいですよ。本当にコストを合わせるのなら石油を山の中に持っていって発電する方がコストは安い。しかし,そんなことを今ここでやろうというのではない。大型だから仕方ないんだという話もありましたが,それは田端先生が先ほどいわれたように発想の転換しなくてはだめなのだ。今までは行政がそういうことはやるんだとか,民間会社の部隊が補助金を使ってやるんだとかが今までの主流だったと思います。しかし,これからは行政,民間会社と市民参加の3すくみの体系でないと環境問題はやっていけなくなる。NGOというかcitizen emphasisというか,市民の参加のないところでは木質発電はやれないだろう。誰が主導するかというときに,行政でも大きなメーカーでもないということは押さえておかないといけないのではないか。

氏原: 先ほどのコストを誰が負担するのかというのがありましたが,高槻市の事例を紹介させてもらいますと,里山林だけでなく人工林も管理すると森林はきれいになる。管理した場合,国とか府とかからから7割の補助金が出る。高槻市の場合には人件費が高いので5割とか6割にしかならないのですが,補助金をいただきまして,なおかつ高槻市では独自にそれに2割上乗せをするわけです。それだけでなく,私はこの山を20年30年間守りますという協定を市長とすると,森林銀行制度といっていますが,補助金でなく報奨金がでる。そういった形でほとんど90%から100%になる。この制度は議会を通っているから市民は理解してもらっている。きちっと山の側が里山を管理し長期間に亘って保全していくというなら,市民はある程度お金を出してくれるのではないかと高槻市での経験から思うのです。里山の木材が売れないので赤字になる。その赤字部分は市民が負担しなければならない。林業者の方も企業努力をしなければいけない。いまでもチップ工場へ持ち込めば立米あたり5〜6000円にはなる。それから運送費や積み込み賃などを引くと山本では2〜3000円にしかならない。電力のコストにする部分と山の公益的な部分とに分けてもいいと思う。よい電気ならある程度高くてもいいのではないか。今,林業は危機的な状況にあるから,パイロットでも何でもいいからどこかに作ってみて,赤字なら市民みんなでカンパしたり,日曜日にみんなで木を伐って発電所へ持っていってもいいではないか。コストがかかるからとかいっていたのでは始まらないのではないか。そうなると林野庁も放っておけなくなって,補助金でもつけてやろうかということになるだろう。そういった期待をしています。

田端: これからどんな仕組みを作らないといけないのか,環境をどう考えたらいいのか。とにかくまったく新しいことをやるわけですから,あちこちでたたかれたり,けっ飛ばされたりするだろうが,とにかく実現しなくてはならないと思っています。今後ももう少し具体的にしてこういう機会を作りたいので,これに懲りずにご意見を聞かせていただきたい。


「たもかく」いついて

田端: 吉津さんは志を同じくするところと提携して協同組合のようなものを考えておられる。この中に森林組合が入るのか入らないのかわかりませんが。吉津さんの手法が「たもかく」以外にも適用できないのかどうかについて,しばらく討論をお願いしたい。

吉津さんは詐欺師なんかでなく,すごくユニークな里山管理を提起して実践している方です。古本と里山と交換する話もすごくユニークである。ただ吉津さんは,「集めたお金は木の葉に化けてしまった」というような話し方をされる。すべてのお金をつぎ込んで里山を買ってしまったということなのですが,ここで誤解を招くこともある。キツネにばかされたとなる。第1回のワークショップの時も「こんな詐欺みたいな話」といって怒って席を立たれた方もいました。しかし私はそうは思っていなくて,吉津節に惚れたこともありますが,里山管理には多様なやり方を試みないといけないと思っています。今のところこれがエースだというのはない。いつも吉津さんにきていただいて申し訳なく思っていますが,それは何とかして「たもかく」の手法をいろんなところに適用できないかと思っているから来ていただいているわけです。しかしなかなか拡がらない。なぜなのか。

発電が唯一だと考えていません。いろんな方が集まって,いろんな手法で里山管理を考えようというのが里山研究会の趣旨ですからご理解ください。吉津さん間違っていたら訂正してください。

最後に,「たもかく」の手法をどう思っておられるか。こういう手法をモディファイして,いろんなところにこのアイディアを適用するのに何か支障があるのか。エコリゾートがどのようにして提携するようになったかについては昨日話がありましたが,「たもかく」は吉津さんでもっているようなものですから,吉津さんが今どう考えておられるかお聞きしてもいいのですが,どなたかありませんか。

氏原: 多くの山を買っておられるということですばらしいことだとおもいますが,開発で山を壊されるという場合に買うというのはいいと思いますが,そうでなくて純然たる農家がもっている山を「たもかく」が買って保有された場合,所有権が移ったというだけではないのか,山というのは村にすんでいる人がもっていて初めて管理が出来のではないか。東京の人が買って,次の世代の人がどこにあるのかわからないというようなことが起きないのか。吉津さんが元気なうちはいいとして,吉津さんがいなくなったとき問題はないのかなあと思っています。もちろん,先ほどもいいましたように今それを考えたら何もできないので,吉津さんがやっておられることは120点以上のものだと思うのですが,心の隅にそういった疑問もあるので,吉津さんご自身,先の展望を考えておられるのかお聞きできれば私も心が安まると思うのです。

吉津: 何で山を買い集めたかは,昨日時間をオーバーしてお話ししました。こどもの頃は入会とはいわずに山といっていた。山には村の人は自由に入ってよかった。入会林整備事業でみんな分けちゃったので,いいところはクリなどを切ってしまってスギを植えちゃった。柴を切っていたりした山では柴を切らなくなるとどんどん木が生えてきて,これはいい面悪い面あるんですが,柴をとっていると出てくるキノコもとれなくなって,ジャングル化しているところもあります。自分が子供の時に山で遊んだり川で遊んだりしたことが,今はできない。そこに入れるようにコストかける,炭焼きが苦しかったとか,農業が苦しくて朝から晩まで働いていたとかいう話がある。今更,自然環境のために重労働をする気は毛頭ありませんけれど,ただ山川で遊んで楽しい思いをするのを,もう田舎の人だけでやるのはもう無理だと思う。でも都会の人を巻き込んで,詐欺だという話もありましたが,実際にきて使っている人は530人の株主だとか,200人のパスポートの会員のなかで密度よく使ってくれているのは2-3割しかない。後の人はボランティア団体に寄付をしてくれているのか,出資金だからいつかは返ってくると考えているのか,10年もやっているとわからなくなってしまいますが,動機はゴルフ場開発がなければなにもしなくていいのかというとそうではなくて,日本全国過疎化が進むと不在地主がいることになる,これは順序が違うだけで結果的には都会の人に買占められたのと同じである。手入れもしない,しかし安い値段では売りもしない。そういう所有の形態がいいのかなというのがあります。株主の7割は都会の人ですが経営しているのは田舎の人間ですから,「たもかく」は都会の人の会社だとは思っていない。放っておけば境がどこにあるのかわからんから,田舎の人の山でも柴刈ったりしなければ境はわからなくなっから,どうでもいい。お金に困ったら一番はじめに手放すのは山林ですね。登記簿を見ると明治時代に山林から酒屋に売ったり醤油屋に売ったりして手放す,山の手入れを請け負わせてもらう,お金ができたらまた買い戻す。買い戻せないと酒屋や醤油屋が山林大地主になっていくという構造だと思んです。それに苦情をいっても仕方ないから,自分も酒屋や醤油屋のように山林を買い集めてみたいと最初そう思ったわけです。それによって所有権が移転しただけでないというのは,私んとこは買い取ったら都会に人が入りやすいように,下草刈ったり仕事を森林組合や元の所有者に頼んでやってもらう。3-4年は広葉樹林改良事業の補助金はまだなかった。ところが,私のところでそういうことやり始めると山の景観がものすごくいいものですから,2年後から地元の森林林組合も天然林改良をやることになる。天然林改良の補助金が予算化されていないという話が出ていましたが,少なくとも福島県では天然林改良にヘクタール当たり20万円位の補助金が出ています。だから,今まで広葉樹の天然林は薪切ったり炭焼いたりしなくなったら無用の長物のようになっていたが,都会に出て山で遊んだことが懐かしい私が帰ってきてそういうことをやり始めると割とインパクト与えて,公共機関もまねをするほど景観が変わった。最近では,森林組合の方は補助金をもらって50町歩100町歩と改良事業をやるので,今では森林組合の山の方がずっときれいなのですね。ですから,時間がたつと誰が始めたのか,誰のアイディアだったのかわからなくなってくる。資金力のない方や公的な認知のない方が2流3流になっていってしまう。補助金のいいところは,お金も大切だけれど,補助を受けることによって行政とかコンサルタントとか,それに関わるたくさんの人たちがそれに関わってくれることだ。「たもかく」が補助金をもらっているのにいかがわしいことをやっていると,批判も出ますし,そういうことやっていると補助が出なくなるという話も出ます。だから,補助をもらうことによって公的に認知されたり,いろんな人と関わってその人たちの援助も受けられる。場合によっては,宗教みたいに「たもかく」っていいじゃないかという人も行政のなかに出てきます。そんなことでただ所有権が移転されているということでなくて,買った山については下刈りもするし,場所によっては登山道,ハイキングコースのような道をつけたりもします。そういうことやって,できるだけ昔の入会林に近い形,地元の人と都会の人の新しい時代の入会林を作るんだ,それを商業ベースで採算に乗せて行くんだというのでやっているんですが,なかなか理念ばっかりで,ながくやっているとやっている本人も新鮮でなくなってしまう。悩みというのはそれです。いつもいつも人を驚かすようなアイディアばかりで勝負すると疲れますし,かといって10年もやっていますと,何かそこにもうちょっと付け加えたいとか,もうちょっと新鮮にみんなに感動してほしいとか,いう欲望もあるんですが,最近マンネリ化しているかなと思います。そんなところが課題です。

田端: 他に何かありませんか。

林(読売新聞): 都会の人はお金を出すだけというイメージが強いんですが,都会の人は「たもかく」に来ることによって,地元の人たちはどういう反応していらっしゃいますか。逆に都会の人たちはお金には換算できない人間関係の部分というのでしょうか。田舎の人達が自然を守るための無意識的な知恵といったものを平気で無視したりということもあるかもしれない。都会の人に合わせた自然というのはある意味では,都会の人間は脆弱になっていますから,公園のような自然を求めるとか,いろいろ齟齬があるのではないか。その辺はどうですか。

吉津: 都会の人が入ってくることに関して,商工業者はいいのですが,農家の70才台以上の人のなかには,顔知らない人が山に入って行くだけで不愉快だという人がたくさんいます。実際そういったことでの軋轢とか,そういうことからくる批判というのは,最近なくなってきましたが,始めて5〜6年は相当ありました。都会の人が会員になったのはいいのですが,私のところで手入れしているところに入ってそこだけですめばいいのですが,隣の林にも山菜が出ていればそこへもいって採るわけですね。採って悪いというのではなくて,割と都会の人は開き直って,あたり一帯「たもかく」の土地だろうなどといったりするという細かな技術的な問題は10年間ずーっと起きています。これからも起きるだろう。そういうのは森永がキャラメル売っていても,「毒入り危険やで」というのがでてくるのと同じで,私はビジネスやっていれば都会とか農村とか自然環境であれ,トラブルとか妬みとかそねみとか打算とかはどんな現場でも起きてきます。ないというユートピアみたいな社会はないんだと。しかし,問題は起きるけれど解決するんだというのでやっているので,ますます生意気だというのでやられることも多々あります。しかし,都会の人が入ってくることでトラブルも起きるけれど,逆にものすごく期待される部分もあります。いままでウルグアイラウンド対策経費だとかいうと何十億というお金が出るんですね。私んとこは,ここ10年間株式会社の方では補助金もらわないで都会の人をどんどん自分の金(1回只見に来ると交通費として往復3万円くらい,民宿に泊まればもう1万円ほど高くなる)を払っても只見に行ってみたい何かを10年くらいは作って来たっちゅうことで,都会の人達を入れて余計なことするやつだという批判も多少ありましたが,それ以上に期待されたという面ありますね。それともう1つ,地元の人とお客さんとの交流ですが,これはお客さんによって違います。地元の人にとけ込んでくれて仲良くしてジャガイモの植え付け手伝うとか,いっしょに掘って自分の家に宅急便で送ったらというように交流している人もいれば,逆に自分が買った土地に縄張り巡らせたり杭打ったりして,「この土地にはいるな」とか,地元の人が入ったりしたら「馬鹿野郎,俺の土地だ」とか「お前はいくらいったらわかるんだ」とか怒鳴るようなお客さんだとかがいて,どうして私が見抜けなかったんだというような苦情を地元の人からいわれたりすることもありました。300人とか土地買った人がいると数%ですけどそういう人がいます。しかし,その数%が数%の問題でなく,「たもかく」のお客は怒鳴るらしいとかっていう(笑)数%ではすまないような問題もある。こっちもそういうことあると疲れますね。いい面と悪い面あります。「たもかく」の手法が他の村おこし団体になかなか拡がらないという理由は,日本の社会にはそういうリスクを犯さなくてもある程度100点主義でいわれたことだけやっていくとか,赤字が出ても役場や会社が面倒見てくれるというか,トラブルは会社が見てくれて自分は引き受けないというところにいた方が安全だという意識がどんどんと拡がっているんじゃないか。そういう面でいうと,何馬鹿なこと始めちゃったのかなと思わないでもないのですが,しかしやってておもしろいし,こういうことやっているから京都まで呼んでもらえるのかなということですね。まただんだん脱線しますからこのあたりでやめます(笑)。

田端: ありがとうございました。司会者が下手でずいぶん混乱しましたけれど,ずいぶん楽しい議論ができたと思っています。この議論は続けますから,どうか里山研究会を見限らないで,支援していただきたい。運動論で終わるつもりはまったくなくて,いろいろ期待できるところはある。兵庫県八鹿町の維田さんが八鹿町にできる施設に木質発電を提案したところ町でもたいへん興味を持って,偵察してこいというので今日参加していただいているんだそうです。もっとも期待できるところは明日行く勝山です。町長や町会議長がたいへん興味を示しておられる。何とかしてどこかで実現したい。岡山が木質発電のメッカになってもいい。京都で作りたいけど京都にできるとは思えない。今日指摘された問題もありますし,まだ指摘されていない重要な問題もあるだろうと思います。そういった問題を頑張ってやって実現したいと思っています。昨日今日とずいぶんハードなスケジュールにもかかわらず熱心に議論していただいてありがとうございました。ニュースでこの様子をお知らせしたいと思います。英語の文献などもできたら訳していきたいと思います。どうもありがとうございました。


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