私たちの問題提起

田端英雄(京都大学生態学研究センター)

「里山研究会」の趣旨は,里山というのは生物学的に見てどういう自然なのかということについて研究調査をすることと,里山をどうしたらよいのかということについて折々に社会的な発言をしていくということのふたつである.そのため,研究者だけでなく,市民の方や実務家の方,特に森林組合の方などにご協力をいただいてきた.

5年にわたって研究をしてきて,現段階での私たちの考え方というのを,「里山の自然」(保育社刊)にまとめた.もちろん,私たちすべてが共通の認識で共通の意識を持っているというわけではないし,さまざま違った意見もある.

里山の生物的自然の調査の中であきらかになったことのひとつは,里山というのは生物学者が従来かんがえてきたほど,貧弱な自然ではないということである.しかし,その生物的自然はかなり危機的な状況にあって,私たちの身近なところにあるいろいろな生き物が絶滅に頻している.

従来は,里山というと山をイメージされることが多かった.しかし,私たちが問題としている里山林というものは,里山林として独立している自然ではなくて,農業環境と密接にリンクした自然であると考えている.だから,里山というのはひとつの景観であって,その景観を構成する要素には里山林もあれば,田んぼもあれば,用水路もあれば,ため池もある.あるいは,ため池の土手なども立派な里山を構成する景観要素だと考えている.そういう農業環境と,里山林としての林業環境がリンクした自然を私たちは里山と呼んでいる.だから,この「里山の自然」の中では,意識してわざわざ林を意味するところに関しては,里山林と書いてある.

そういうふうに里山を考えてみたとき,なぜ非常に豊かな生物相がかつてあって,そして今,なぜ危機的な状況にあるのかというのが,私たちの非常に大きな疑問である.あきらかになってきたことは,里山が里山として利用されていたから,多くの生き物達が生活を維持してこれたということである.そして今,多くの里山に住む生物が危機的な状況にあるというのは,里山が利用されなくなってきたからであると考えるようになった.したがって,里山林をよみがえらせるためには,かつて里山林が薪炭林として使われていたときのように,里山林を使う必要がある.しかし現在,林業の方から,そういう提案はない.

特に,最近は,リオの環境サミット以来,持続的利用とか持続的発展などいうような資源のことや,生物の多様性の維持などは,はやり言葉としていたるところで出てくるが,ではどうしたらその自然を持続的に利用していけるのか,その利用方法の提案はないし,それから,保護林を作ったり保護地域を作ったりすれば生物的多様性が維持できるんだというような話ばかりである.ところが,私たちの身のまわりの本当に守らなければならない自然というものは,こんなことでは守れないということを私たちは強調したい.

では,どうしたら,里山林をよみがえらすことができるのか,あるいは里山に隣接している田んぼ,あるいはため池をどうしたらよみがえらせることができるのか.

里山林というのは,かつて薪炭林として利用されてきた時代と同じように,利用すればいいのではないか.つまり,ある一定の面積を一斉に伐採して,次には隣に移って,また伐採する.そうして,15年おきくらいに伐採をするようなサイクルでいくと,特にコナラ林のような里山林は,萠茅更新して,15年に1回くらい利用できるようになる.そういうふうに里山林を利用できると,生物にとって様々な環境条件が用意されていることになる.したがって,その様々なパッチ状に広がっている様々な環境条件にあった生き物達が,よみがえってくるのではなかろうか.

では,そういう利用の仕方は,どうしたら可能なのか.里山を維持してきた伝統的な林業技術を継承しながら,その上に新しい利用方法を考えてはどうか.だから,私たち里山研究会としては,炭焼きというのにこだわってきた.その結果到達したところが,炭焼きも発電も同じことだということである.島根大学の小池さんが私たちの研究会に来て最初にいったことは,「発電と炭焼きは一緒や」ということだった.つまり,炭焼きと同じ手法で,その最後のところで発電しようということだった.ここで私たちは新しいアイディアを産むことができた.つまり,炭焼きをもう一度復活させよう.そして,その最後のところは炭じゃなくて,発電でもかまわないということである.しかし炭にも魅力がある.そこで出てきたのが「燃えない炭」というものである.まだ「燃えない炭」には利用の問題とかいろいろ問題があるが,私たちはこういう方向を追及したいと思っているわけである.

こういう考え方で進みたいと考えているが,まだ多く問題がある.たとえば,現在里山を所有している人達が,自分の持ち山についてどう考えているか.京都府では,竹やぶがどんどん広がっていて,竹やぶがコナラ林をどんどん置き換えて,コナラ林はどんどん竹薮に変わりつつある.そして,自分の持ち山のコナラが竹薮になっても文句をいう人がいない.そういう状況である.

これは私たちにとって,反面いい状況でもあるともいえる.どういうことかというと,個人の持ち主は土地に執着はあってもその上にはえている木に関しては,ほとんど執着がない.だから,里山の自然は持ち主の物ではあるけれど,同時に持ち主だけではなく,私たちにも関係のある自然だ,という風に考えやすい状況がある.そこで,もう少し社会的なものとして,里山林の自然を考えてみる必要がある.

つまり,最近盛んに議論されている「コモンズ」という考え方を導入して,私たちの里山管理の考え方を進めるバックグラウンドとして考えたい.社会の共通の財産と考えることにより,これをとにかく手を入れない限りいけないのだと.道路に穴が空いたら補修をするのと同じように,里山にいろんな問題が起きたら,それを補修しなくてはいけない.持ち主のためではなく,我々みんなのためだというふうに考えることにより,この里山の自然というものは大きく姿を変えてくる.そのように考えたとき,新しい炭焼きと新しい発電による里山管理の手法というのは,現実味を帯びてくると考える.だから,これはある意味,文化革命と言ってもよい.私たちの文化,あるいは価値観というものを変えてしまおうじゃないか,という提案でもある.

私たちが言ってる発電には,もうひとつ大変重要な意味がある.それは大量集中生産という生産様式に対して,小規模生産型の分散型の生産様式という新しい文化を対置することである.こういった意味で,多くの私たちの価値観の転換を,同時に私たち自身がやりながらこの問題を「里山管理」というものにつなげたい.私たちは里山の管理というのは,日本の自然をどうするのかということであると断言してもいいくらい,自信を持っている.私たちの身近な自然を見直して,これをどうしたらよいのかということを考えることにより,日本の自然というものをよみがえらせたい.